テレ朝からAmazonに引き抜かれて2年、その第一作目(『ゴールデンコンビ』)が10月31日配信開始されました。ver.3.0

息子の記述によれば「私が大学卒業後の2008年から2022年まで14年間務めたテレビ朝日を退職し、2023年からAmazon MGM Studiosに転職して、ようやくたどり着いた”Amazon1作目”の企画・演出作品」が、この『THEゴールデンコンビ』。 私も、映画並かそれ以上の制作費・製作時間をかけての、責任の重い第一作というので、今年5月18日の収録の現場(関係者席で)に参加していた。収録は朝9:00~夜22:00までの長丁場だった(収録スタジオはフジテレビ湾岸スタジオ)。 私は、昼から2,3時間見て帰ろうと思っていたが、思った以上に面白かったので、最後まで食事もせずに見終えてしまった。なにより会場200人の観客と演者・スタッフとの一体感が私をそこまで導いたのだと思う。それに吉岡里帆を生で間近で長時間見られるという邪悪な動機があったかも。 そして、それから5ヶ月の編集期間と広告宣伝期...

昨夜は、20年前の作品『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004)全11話を一晩で全話見た。

昨夜は、20年前の作品『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004)全11話を一晩で全話見た。主人公の悲劇的な死をからませればなんでもこれぐらいの作品にはなるよ、と思いながら見続けてしまった。お盆の時節にも適していた。 ついでに言えば、綾瀬はるかの眉毛がヤンキーのように細くしすぎとずっと思いながら。ついでに言えば、三浦友和は息子(三浦貴大)の演技より大根になっていて、蓮舫のあざとい表情と逆で顔の表現が全くできない人になっていたので残念だった(そんなに下手な役者ではないのだが)。さらについでに言えば、松下由樹が脚本に生かされて時として痩せて見えた。やはり役者は脚本あっての役者。 今から半世紀以上前の『太陽にほえろ』というTVドラマを思い出す。あれは、いつも無名の役者が主人公になって一話完結のドラマになっていたが、脚本がとてもよくできていて、その無名の役者の実力をうまく引き出していた。よくとれば、色...

結婚おめでとうございます、大谷選手 ― 彼のお相手が彼に〝似ている〟ということについて

大谷選手の結婚相手が大谷の顔に似ていると言われているが、それは、ある意味当たり前で、たぶん、大谷のお母さまの若い時代の顔に彼女が似ていたからに違いない。 こういうカップルは大谷選手にかかわらず長続きする(と、私は彼の結婚を勝手に楽観視しているが)。似ても似つかぬ顔の場合は、男性の方に、女性の顔の原型について像が存在していないため、女性と同じような異性彷徨が生じやすい。そんな男に〝引っかかる〟と女性は大変だ。...

パソコン一つで世界を動かす ― 大学の情報教育は、国・公・私立大学問わず、未だに「電気通信」時代のカリキュラムにとどまっており、今日の「情報」教育に対応できていない。(Ver.1.0

2025年4月開設予定(現在申請中)の新学科「環境情報学科」(入学定員40名)について、カリキュラム作り、教員集めのプロデューサーの一人としてその思想を書いてみた。来年4月に新入生に会えるのが楽しみです。 目次--------------- ◉二人の天才が作った時代に生きている ◉もう一つの言葉としてのプログラム言語と大学教育の貧困 ― ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの興奮を学べる日本初の情報学科 ◉ソフトウェアの開発(プログラミングから設計・ソフトウェア製品開発・システム運用・管理)について全体的に学べるカリキュラムは本学本学科だけ。 ◉他大学の授業時間数と本学科カリキュラムを比較してみる(一回の授業時間90分を1時間としてカウントしています) ― 理系・文系を問わない新しい「情報」教育に現代の大学教育は対応できていない。 ◉カリキュラム全体に占める〈演習〉の割合が95%! ― 講義...

披露宴・新郎の謝辞(ウエルカムスピーチ&謝辞)

新郎:ウェルカムスピーチ 本日は、私たち2人のためにお集まりいただき、ありがとうございます。先ほど無事挙式を執り行い、夫婦としての歩みを始めることができました。 今日に向けて、今ここにいらっしゃる全ての皆様が楽しんでいただけるような披露宴にすべく二人で何度も話し合い準備してきました。久しぶりに台本も本気で書きました。 テレ朝の同期と後輩にゴールデン並みの労力でロケと編集もしてもらいました。 皆様の存在なくして、私たち二人は今、ここにはいません。そんな感謝の気持ちを詰め込みましたので、楽しんで頂けると幸いです。 新郎:謝辞 本日は、私たち2人のためにお集まりいただき、ありがとうございました。 改めてこの披露宴を通して、父母のもとに生まれたこと、ここにいる皆様と出会えたこと、そして彼女に出会えたことに幸せを感じています。 私は人生において、大切にしていることがあります。それは、この会場の「...

【増補版】一生に一度の披露宴謝辞(親族を代表して)

●最後にして最初の披露宴謝辞 ※当日は流れに身を任せて、と思って話す内容をまとめて原稿にすることはなく、記憶をさぐって一週間かけて自己文字起こししました) 「それでは両家を代表して、新郎のお父様、アシダヒロナオさまより御挨拶でございます」(司会・久富慶子)。 ---------------------------------------- 今日のこの披露宴、最初のつかみの演出がよかっただけで、あとは何というかありがちな演出で、なんだかなぁと(会場・笑)。 先ほどの新婦の、ご両親への言葉も長すぎてつまらないし(新婦から「ひどーい」の悲鳴、吉村崇さんから「言い過ぎだろー」会場・大笑)。...

【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0

今日の大学教育の衰退について ― あるいは、「学修成果の可視化」について 教授する術を心得ていることや知を教授すること、さらには知識を生みだす術を心得ていることは、私たちが問うている古典的かつ近代的な伝統においては、作品を生みだすこととは異なる。教員自身がその作品に署名するわけではない。彼ないしは彼女の教員としての権威は、作品に対する作者の権威とは異なる。(ジャック・デリダ) ※文中に出てくる(●●●)などの表記は、その直前の語句の上に付く傍点ルビを意味します。悪しからず。 【目次】 偏差値格差をどう乗り越えるか ― 多様性教育の害悪について(〝優秀な〟学生はどんな大学のどんな教員の下でも存在している)/成果の継続的な拡大 ― 「組織的な」教育の必要性について/〈修得〉主義と〈履修〉主義について ― 試験主義と出席主義の起源/拡張された学力概念の害悪(1) ― 科目教育の軽視と履修主義...

【完全32スライド版+資料付き】「大学のずさんな授業について ― あるいは、ずさんな授業の元凶は、ずさんな期末試験であることについて(2022教育EXPO講演)

本日13日15:00より東京ビックサイトでの講演+対談(京都大学・飯吉透先生)のネタスライド(まだまだ誤字脱字含めて修正中)です。飯吉先生との対談は、このスライド講演についてのものになります。対談に引き続いて公開質問も受け付けます。WEB視聴も現地参加も無料です。私の講演のWEB視聴はすでに200名くらいの申込みがあるそうなので、私もお楽しみにしております。何と言っても『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』(晶文社刊)を出した途端にコロナになってしまい残念なままの2年間でしたから。みなさま、本日ビックサイトで久しぶりにお会いしましょう。ご参考までに27枚のスライドはすべてアップしておきます。時間内には絶対全部終わらないと思いますので。 ※申込みはこちらから(個人でも参加可能。申込み登録しておくとWEB視聴の時にパワポ含めて資料類全部ダウンロードできます) ...

大学の授業改革はなぜ進まないのか ― 大学における期末試験不正について

●大学教育(学校教育)のレベルを担保するのは、〈試験〉 1. 今日の大学の序列化は、入学時の偏差値(入学試験のレベルとその解答のレベル)で決まっており、残念ながら、在学四年間の教育力がその入口の偏差値を相対化するところにまでには至っていない。文字通り、東京大学の入学試験は「とても難しい」という評価に伴って(その入学試験を解ける大学生の〝基礎学力〟の高さによって)大学の教育評価の大半が決まっている。 2. その要因は、大学内期末試験(毎期の履修判定試験)が全国ほとんどの大学で杜撰だからだ。 3. 杜撰になる理由は、大学は〈学校教育〉最後の学校になり、上位接続がないため在学期間の教育の第三者評価(客観的な評価)が〈就職〉という、学校教育体系とは異質な評価で曖昧にされているからだ。 4. その分、大学の教育目標も形式的には立てられるが、それよりも入学時の学力(偏差値)の方がはるかに第三者的で当て...

感染阻止か、経済か、それともそれらの「バランス」か、そんなことはどうでもいい。

感染阻止か、経済か、それともそれらの「バランス」か、それとも経済支援かではなくて、そんなことはどうでもよくて、軽症者の臨時隔離施設を確保すればいいだけのこと。 そもそも医療経営が破綻していることの方が街場の飲食店が倒産することよりもはるかに深刻なことだ。前者の経営を確保することなしに後者が立ち直る可能性はないのだから。...

「観点別評価」と「生涯学習」と中曽根臨教審、あるいは〈主体的な学び〉について(『シラバス論』321~331頁)

国語や英語や数学などの教科教育において、知識点数(だけ)ではなく、意欲、創造性も(共に)評価するという、いわゆる「観点別評価」が始まるのは、他ならぬ1990年代以降(=中曽根臨教審以降)の学校教育の中でのことです。 「観点別評価」を一言で言えば、知識点数は40点しか取れていないのに、20点の意欲点などをそれに付加して、履修判定のための最終「総合」合格点(60点)を出すというものです。こうやって、知識点数評価とは別に人物評価的な「観点」を加えていくと、従来は四〇点で落伍していたものが、人物評価主義的に救済されていきます。もちろん逆に100点の知識点数を有していても、50点マイナスの人物評価を受けて不合格になることがあっても理論的には不思議ではないのですが、事態はそうならず、前者の救済評価のみが1990年代以降蔓延したのです。 「知識のみならず、人物評価も」という議論の本来からすれば、(知識点...

学生は〈顧客〉ではない(『シラバス論』186~188頁)

なぜかと言えば、学校教育では、〈学ぶ主体〉などまだ完成していないのだから。むしろ〈学ぶ主体〉を形成するのが学校教育全体の目的であって ― 教育基本法では「人格の完成」いう言葉があるが、これは第一条「教育の目的」に属している言葉であって、まだ人格として完成していない子どもたちを前提とした言葉である ― 、〈学ぶ主体〉を前提にするのであれば、〈学校教育〉は存在する意味がない。 〈学校教育〉に〈学ぶ主体〉が存在するかのように思えるのは、家族や地域の文化環境(〝裕福な〟環境)のせいであって子どもそのものの力によってではない。学校教育は、家族や地域の文化環境をとりあえずは括弧に入れて、クラスに入れば子どもたちを公平平等に扱うところにある。すべてはこれからというところにしか学校教育の存在意味はない。そこで初めて、次世代を担う子どもたちは親の世代や階層(家族や地域の文化環境)を超えてあらたな階層を形成し...

大学における教育と研究との関係について ― フンボルト理念とセネカのDocendo discimus ― (『シラバス論』194~198頁)

Docendo discimus(ドケンドー・ディスキムス) は、セネカの言葉である(『セネカ哲学全集(第五巻)』倫理書簡集Ⅰ、岩波書店、2005年)。「教えることによって学ぶ(教えながら学ぶ)」という意味だが、これは西川純(上越教育大学)たちのくだらない『学び合い』教育とは何の関係もない。いつでもどこでも最高判断、最高認識が露呈する仕方で学ぶ者に接しなさいということだ。「君は君自身のために学んできたのだから」(同前・21頁)とセネカは教えることの啓蒙主義を退けていたのだから。 学ぶ者の程度を考えることは教える者自身の堕落に他ならない。「程度を考えて」教える教員は大概がその「程度」の教員に成り下がる。「わかりやすく言うと」と言いつづけて教える教員が、いつの間にかわかりやすいことしか考えられなくなることも多々ある。それは啓蒙主義の限界でもある。 一方、留保なく教えることができるときにこそ、〈...

学校教育における職業教育の諸課題(『シラバス論』351~356頁)

※本間正人さん(京都造形大学教授)との、大激論公開対談(学校教育における〈キャリア教育〉とは何か)からの抜萃。 ●二重の差別を受けてきた「職業教育」 芦田 そういった議論を前に進めるために二点指摘したいことがあります。一つは、本間先生はいま偏差値が上の方の子はキャリア教育はなくてもいいかもしれないという前提(僕もその前提を共有していると指摘されながら)でお話になっていますよね。 僕はこの問題の内部には、実は別の問題があると思います。80年代後半の中曽根臨教審、これは下村博文さん(2012年~2015年の文部科学大臣)や安倍さんが全く同じ方針を引き継いでいますが、基本的にキャリア教育や職業教育に対する差別視がある。 つまり、一方にはジェネラル・エデュケーションとリベラル・アーツというこれまでの偏差値型の軸が一本あって、今の日本の教育体系ではこれを「頭がいい」と判断します。そこで、本間さんもお...

カリキュラムの反対語は「講座制」 ― 講座制の歴史について ― (『シラバス論』70~77頁)

カリキュラム教育においては、科目はカリキュラムの〈部品〉に過ぎないが、東大に始まる旧帝大型の講座制(はるか昔、明治20年代以降に始まった)がまだ色濃く残る ― たとえ学校教育法が2007年にやっと改正され〈助教授〉が〈准教授〉になろうとも ― 今日の科目編成においては、シラバスの「詳細化」がカリキュラム開発に貢献することなどまだまだ考えられない状況だ。 天野郁夫によれば、「講座」の名称が登場するのは、明治23年の「大学令案」(文部大臣は第三代芳川顕正)らしい(『大学の誕生』中公新書、2009年)。当初の大学(教育研究組織)は、学部と学科の「二層」だったが、「大学令」以来、学部・学科・講座の「三層」になり、この「講座」に「教授・助教授・助手」が張り付いたのである。今からみれば、これが大学における学部や学科の求心性を殺ぐ教授主義の起源なのだろう。(※4)...

「大学の多様性」と「学生の多様性」と ― 「多様性と標準性の調和」(2008年)から「多様性と柔軟性の確保」へ(2018年) ― (『シラバス論』49~68頁)

「専門」教養とか「一般」教養、あるいは専門教育と一般教育などのありそうでなさそうな区分ももう一度考えるべき時なのかもしれない。四年間全体が教養教育だと言えば言えるし、四年間全体が柔軟な職業教育だとも言えるこの時代に、学部教育(学士課程)のカリキュラムをどう考えるのか、そこにしか〈専門〉と〈一般〉との区別を考える手がかりはない。 佐藤学によれば、大綱化までの日本の大学は、アメリカの大学の教養課程+ヨーロッパの大学の専門課程を足して二で割ったような体裁(アメリカ型四年教養教育の二年縮減型+ヨーロッパ型四年専門教育の二年縮減型)を取っていたが、設置基準の「大綱化」により、「教養教育が軒並み衰退」した。「それほど教養教育の教官が恵まれない状況に置かれてきたということです。予算といい教育の状況といいノルマといい弱い立場に置かれてきた。そのために一挙に崩れた」ということになる(「教養教育と専門家教育の...

先生が「答えを教える」授業はダメな授業なのか(『シラバス論』240~251頁)

(…) 一方、潮木守一は「最近では『わかりやすい授業』とは『勉強しなくてもわかる授業』、『予習しなくてもわかる授業』、『先生が答えを教えてくれる授業』になってきている(…)人間が長年にわたって学問にかけてきた努力と情熱を真っ向から否定している」という「ベテラン高校教師」の言葉を報告している(前掲書『大学再生への具体像(第二版)』)。 しかし、これはためにする批判のような気がする。パワポ論のところでも書いたが(二章五節)、授業という場所はどんなに資料(コマシラバスを含めて)を「詳細」化してもメタ情報 ─ それ「について」語るというように ─ が絶えず発生する場所である。詳細化の度合いは、そのメタ情報の質をどんどん高めてくれる。詳細に書き出した内容(の水準)を踏まえてメタ化が発生するからである。 詳細化すればするほどメタ情報は高度化する。書物、教科書、文献、教材資料、あるいは実習設備など、それ...

学歴主義と最新学習歴主義(Learnology)について(『シラバス論 』371~378頁)

※本間正人さん(京都造形大学教授)との、大激論公開対談(学校教育における〈キャリア教育〉とは何か)からの抜萃。 本間 僕は「学習学Learnology」というのを提唱していて、「最終学歴」という言葉を死語にすることが目標です。ここも、芦田先生とは違うところだと思いますけどね。「最新学習歴」が大切になってくると思う。 この大学、この学校を出たら学位が出ますというのは、現状、文科省の便宜上の形式的な取り決めに過ぎません。例えば僕らの話を聞いても、学位が出るわけじゃないですね。しかし何かそこで気づきがあり、何かそこで学びがあれば、最新学習歴を更新したことにはなっている。 やっぱり最終学歴という考え方は、教育学習のチャンスが社会的に極めて少ない資源で、かつ学校とかにフルタイムで所属しないと、なかなか知識や技能を身につけることができない社会では一定の意味があったのかもしれない。しかし今は自ら学ぼうと...

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