とある中学・高校校長の断章についての感想 (2)― 「概念把握」型教育の重要性について、今さら言うのか(解説Podcast付き)
2026年3月13日 07:39
これからの大学
この先生の言う「概念型学習」のダメなところは、そもそもが、いちいち言わなくてもすべての学習は「概念型学習 」なのに、それを概念把握しない教員が、暗記に走るからです。授業の現場の単調さを知らない連中があたかも新しい教育法であるかのように、「概念型学習」に飛びつくのです。
暗記のない教育などあり得ないのですが、暗記するにも、概念理解すれば暗記効率ははるかに上がるわけです。
進学校の生徒達は、概念理解にはるかに長けた教員が教えていますから、英単語一つ教えても、ギリシア語、ラテン語語源などに遡って教えてくれます。
だから、理解が深くて一度聞いたら、暗記する前に忘れられない。一つの単語の「概念理解」ができれば、同時に10個の語群を理解できる。単調と見える記憶学習も、この「概念理解」なら、はるかに楽しい。
ところが、自発性、自主性、個性などを声高に叫ぶ教員、「暗記だけが勉強ではない」と声高に叫ぶ教員ほど、「ここは覚えるしかない」と言い続けるわけです。あるいは、「昨日教えたのに、教えた先から忘れている。1時間も記憶が持たない」「そもそも復習ということ自体やらない」と言って、生徒側にダメ烙印を押すわけです。
しかしそれは、一つの言葉の2000年の歴史について教員が不勉強なだけのことです。なにしろ、教員は「支援者」に過ぎないから、そんな勉強をしなければならない動機が生じない。
だから、言わゆる〝偏差値〟の低い学校の生徒達が勉強嫌いになる理由ははっきりしている。単調な暗記ばかりが続くからです。よい教員とよい指導に恵まれていないのです。
〝頭のいい〟生徒は、逆に〝頭のいい〟教員に恵まれて概念志向の授業を受けることができる。単語一つ覚えるための労苦が、〝支援〟教員高校の生徒は進学校よりむしろはるかに多いのです。だから、どんなに〝才能〟ある生徒でも、そんな教育を受けたら、勉強嫌いになるに決まっている。
受験教育だけが、教育の目的ではない、ともっともそうに言う人がいますが、予備校でも、受験高校でもはるかに概念志向の授業をやっています。そうでないと、高偏差値大学に必要な数の単語数、歴史専門用語などを〝覚える〟ことができないからです。
彼らは大学に入ればほとんど勉強しませんが、それでもその入学前の受験勉強がもともと概念志向であるために、卒業して社会人として勉強をするときにも、その〈経験〉が生きるわけです。
これは、記憶力や暗記力のためではなく、過酷な受験勉強を経ないと得られない概念志向のためです。〝できない〟生徒は、概念なき暗記によって、あるいは概念なき知識によって、できなくさせられているわけです。
最近の教員は、AO入試での大学経験しかない場合も多い。入学してからも、まともな単位認定も経ないで卒業した人も多い(観点別評価、期中評価によって)。
大学教員も以前よりはるかにインフレした程度の低い博士論文しか書けていない。2000年以降蔓延したPDF論文主義と検索主義で分厚い本を細かく読んだ経験もない。講義ノートすら作らない。
大学の教員、特に若手の教員は、専門性の狭いところで尖っているため、15週15コマのシラバスを書かせても、得意なところは、半分あったらいい方。急に入門書をかき集めてシラバスをパッチワークのように書くため、迫力のある授業ができない。つまり概念志向の授業ができない。
そんな状態で、〝できない〟生徒や学生が、ますますできなくなっているわけです。
これは、すべて教育側の課題です。ところが教員は〈支援者〉だという観点からはこの課題は出てこない。
従って、知識や暗記だけではなく概念志向を!というスローガンは、全く本末転倒の事態を吐露しているわけです。知識や暗記が定着するには概念志向以外にあり得ない。そして、概念志向とは、まさに教員の勉強以外からは生まれてこない。各教科の専門性を高めることからしか出てこないわけです。これは、支援者としての教員からは出てこないアジェンダです。
支援者型教員の立場から出てくる概念志向の堕落した形態が〝探求〟型授業です。
日本史の探求型授業であれば、もう縄文時代からやるのはやめて、明治維新だけをやる。それが、歴史的思考の〝モデル(ある種の概念)〟を学ぶというものです。
〝モデル〟と言っても、明治維新の専門家が教える訳でもないから、大河ドラマ以下、よくても司馬遼太郎以下の月並みなモデルでしかないわけです。
しかし、明治維新の歴史モデルが、すべての歴史に通用するわけではありません。明治維新が歴史の一アジェンダであるように、そのモデルも歴史の一モデルでしかない。モデルも色々あるということを知ること自体が、歴史を学ぶ、ということでしょう。中等教育までが、大学のリベラルアーツの手前の「一般」教育である理由はそれです。
したがって、この探求型授業の概念思考は、結局は、縄文時代から現代までを〝できない〟生徒に教えるのは無理だから、一時代をサンプルにしてそこに充分な時間を与えてやればなんとかなるのではないか、という安易な発想から来ています。大学進学、高偏差値大学を目指す生徒だけが生徒ではないから、〈日本史〉全部を教える必要ないだろう、という身勝手な身分主義が前提になっています。これこそ、裏返しの受験主義です。
しかし、日本史は大学進学者のためだけのものでしょうか。なぜ、高卒者は明治維新だけでいいのでしょうか。そんなふうに、大学のカリキュラムも20単位くらいしか必修科目がなくなり、安手のバイキングレストランのようなメニューになっています。それの高校版とも言える普通科の4分類施策も数年前から始まりました。
すべて、できない生徒には、そんなに勉強させなくてよい、という思想が前提になっています。それに並行して、先生と言われる人も、教えるのに、そんなに勉強する必要は無いという仕事になっているわけです。大学も同じです。大学の先生も、シラバスもまともに書けない芸能人やジャーナリストでもやれることになっています。
ますます、知識〝量〟が削減されて、知識の地位が低くなっています。つまり、〈量〉が低下するということは、その分、概念志向の教員が減少するということと同じことを意味するわけです。
そして、その分、教員は〈指導者〉ではない、〈支援者〉である、と1990年以降吹聴する連中も増えてくるわけです。
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元記事のAさんの断章(2026/03/11)より
学校での学びについて考えるとき、私たちはつい「どれだけ知識を覚えたか」や「どれだけ速く正確に問題を解けるか」といった尺度で語りがちです。もちろん、それらは大切な力です。しかし、学びとは本来それだけなのだろうか、と考えることがあります。
教育の分野では近年、「概念型学習」という考え方が注目されています。個々の知識や出来事を覚えるだけではなく、その背後にある共通の原理や関係性を理解し、別の場面にも応用できるようにする学びのことです。
例えば歴史であれば、明治維新の出来事や年号を覚えることは大切です。しかし、それだけではなく「社会の大きな変化はなぜ起こるのか」という問いを考えると、学びは一つの出来事を超えて広がります。権力構造の変化、技術革新、国際関係など、さまざまな要因が重なり合って歴史が動いていくことに気づきます。
理科でも同じです。生態系の名称や分類を覚えることにとどまらず、「生き物はどのように互いに影響し合っているのか」という関係性の概念に目を向けると、自然の見え方が変わってきます。ある生き物が減ると、別の生き物が増えたり減ったりする。自然は個別の存在ではなく、相互に結びついたネットワークとして理解できるようになります。
数学でも、公式を覚えるだけではなく、「その式はどんな現象を表しているのか」と考えると、数学は単なる計算ではなく、世界を理解するための言語になります。比例や関数の考え方は、人口の増減や物価の変化、エネルギーの利用など、さまざまな現象を読み解く枠組みとして働きます。
こうした学びは、探究活動の中でも同じように現れます。
例えば地域の人口減少をテーマに探究を進める生徒がいたとします。最初は「なぜ人が減っているのか」という疑問から始まるかもしれません。しかし調べていくうちに、仕事、交通、教育、地域文化など、さまざまな要因が絡み合っていることが見えてきます。
そこから、「地域はどのような条件で持続するのか」「人が集まる場所にはどんな共通点があるのか」といった、より大きな問いへと広がっていくことがあります。個別のテーマから出発しながら、その背後にある構造や関係性を捉えていく学びです。
つまり概念型学習とは、単に知識を積み重ねていく学びではなく、世界の見方そのものを育てていく学びです。
このような学びの価値は、単に理解が深まるということだけではありません。概念を理解すると、学んだことが別の場面にもつながっていきます。歴史で学んだ社会の変化の構造は現代社会の出来事を考える手がかりになりますし、理科で学んだ相互作用の考え方は環境問題や生態系の理解にも広がります。知識が単なる断片ではなく、世界を読み解くための枠組みとして働き始めるのです。
そして、このことは社会との関わり方にもつながっていきます。現実の社会には、単純な正解のある問題ばかりがあるわけではありません。人口減少、環境問題、地域の衰退、エネルギー、格差----どれも多くの要因が絡み合う複雑な課題です。そうした問題に向き合うためには、出来事を断片的に理解するのではなく、その背後にある構造や関係性を捉える視点が必要になります。
概念を理解するとは、言い換えれば、世界の構造を読み取る力を身につけることでもあります。そしてその力は、社会の出来事を自分の問題として考え、関わっていくための土台にもなります。
教育の目的の一つは、社会にとって有為な人材を育てることだと言われます。言い換えれば、自分の生きる社会を理解し、その課題に向き合いながら関わっていける人を育てることでもあります。
近年よく語られる「地球市民(グローバル・シチズン)」という考え方も、その延長線上にあるものなの
かもしれません。自分の身の回りの出来事だけでなく、環境問題や人口、資源、国際関係といった地球規模の課題まで視野に入れながら、世界との関係の中で自分の役割を考える視点です。
こうした視点を育てるためにも、出来事を断片として覚えるだけではなく、その背後にある構造や関係性を理解する学びが重要になってきます。
そして、このような学びは、教師が説明するだけではなかなか成立しません。問いを立て、試行錯誤し、対話しながら、少しずつ理解が深まっていきます。
子どもたちが問いを持ち、考え、試し、また考える。そのプロセスが自然に生まれるような環境をどうつくるのか。
教育とは、知識を伝える営みであると同時に、世界をどう理解し、どう関わっていくのかという視点を育てる営みでもあります。世界を断片ではなく構造として見ること。その視点こそが、学びの出発点です。
