とある中学・高校校長の断章についての感想 ― 〈学校教育〉における生徒・学生の「多様性」「主体性」「個性」などをどう考えるのか(解説Podcast付き)
2026年3月11日 13:04
これからの大学
あなたの言う「学びを導く存在」は、支援者であることと同義ですが、そのように学ぶことのベースを生徒個人の能力(個性の伸長というように)に定位する考え方は、まだ個人として自立していない児童・生徒・学生にとっては負担が大きすぎます。※「あなた」の元記事は、この私のレポートの文末にあります。
どう負担が大きいかというと、この個人はまだまだ家庭や地域の影響(家庭や地域の文化性)を色濃く受けた個人だからです。教育基本法で言う「人格の完成」が学校教育の目的だとすれば、まだ彼らは完成していない人格なのです。
だから主体性、自発性、個性と言っても、それらの大半は家庭や地域の影響から自立できないでいるものにすぎない。
つまり、生徒個人の能力を〝尊重〟すればするほど、生徒個人の多様性を〝尊重〟すればするほど、家庭格差(親の教養や文化性)を色濃く反映したものにとどまる。困った子どもの親は困った親の反映でもあるわけです。
学校教育の標準性は、なにも工業社会の生産物の標準性に関わっているのではなく、こういった家庭格差(親の身分や階級)をとりあえず暫定的な標準性(知的な標準性)で相対化することにあります。
つまり学校教育の標準性の本来の意義は、家庭格差、地域格差から子どもを解放することです。この観点を抜きに多様性を称揚すると、勉強嫌いな子どもに無理して勉強させることはない、という臨教審思想(その曾野綾子や三浦朱門や香山健一などの中曽根ブレインが主導した臨教審思想、要するに安物のエリート主義)に直結します。
家庭連携強化などという方針を文科省もダメな学校も打ち出しますが、〝底辺の〟子供を指導できないまま親を呼んでも、その種の親たちは、「子供に任せてますので」と言う場合も多く、結局、子供と親双方に〝職員室〟でケチを付けておしまいということになる。親を頼っては何も始まらないのです。教員こそ、自律的に子供に接しないと。
多様主義を標榜する「観点別評価」や「総合的な評価」は、客観的な点数〝さえも〟取らせられない教員の無力をそのまま温存する評価になったのです。現在の大学はもっと荒廃していて、期末試験が30点でも、評価基準の曖昧な期中評価30点を底上げ点に加えて単位を与えています。まさに「観点別評価」「総合的評価」の末期状態な訳です。それらの評価の本質は、点数は悪いけれども、性格がいい、態度が真面目、というものです。そうやって、1990年初頭以降教員は、子どもに点数を取らせる努力をしなくなりました。
勉強が出来る学生は、そんないい加減な評価に甘えることなく、自分で勉強を進めますが(つまり、学校の先生や評価体制の杜撰さに影響を受けることなく)、そのような自立性の足りない生徒や学生は、「それなりに」卒業していくわけです。親の方も高卒資格主義、大卒資格主義でいい、教員も評価を厳しくすると退学してしまうといって、なんとか卒業までもっていくことを教員の使命(サービス)と勘違いしています。
学校が多様性や個性で緩んでしまった分 ― あるいは昨今の高校普通科四区分論で、普通科が緩んでしまった分 ― を補えるのは、家庭の知的環境がある程度担保されている家庭なだけで、「知識だけがすべてでない」という言辞の犠牲者は、家庭的にも地域的にも不利な状況にある子どもたちなわけです。そもそも「知識だけ」ではない、と言う人に聞きたいのですが、知識すら与えられていないのが現状です。足し算も割り算も分数もできない高校生がそのまま大学に進学してきています。進学だけがすべてではないのは確かですが、足し算も割り算も分数もできない高校生を、それも多様の一つ、個性の一つと言うのでしょうか。
子どもの主体性が存在するとすれば、それは家族の庇護(学校教育の不足分を補うことのできる親の庇護)を受けているからです。しかしすべての家族がその種の文化性を有しているわけではありません。主体性や個性を声高に叫べば叫ぶほど ― 市川伸一や奈須正裕のような〝俗流〟心理学者の尻馬に乗って叫べば叫ぶほど ― 、家族から孤立している(むき出しのまま社会に対峙しなかればならない)子どもは、最後の砦の〈学校〉からも見放されているわけです。その分、不登校児も増え続けている。
学校は、今こそ社会的な親、社会的な家庭となって、子どもを〝指導〟するパワーを持つ必要があるのです。次世代を形成する学校の役目とは、親の階層から、子どもを引きはがすところにわけですから。階層の流動化の起源が近代的な学校教育の意味ですから。市川伸一、あるいは奈須正裕みたいな教育心理学者の個人主義では、公教育の階層流動化のアジェンダは出てこないのです。
何が言いたいのか。
〈学校教育〉は、子どもの主体性の強度、自発性の強度、個性の強度、多様性の強度と関係なく、教育を受ける(受けることが〈できる〉)場所です。
なぜなら、これらは、〈学生〉を脱するまでの子どもの時間においては、家庭の強度と相関している指標だからです。これらを強調すればするほど、〝貧困〟家庭の子どもたちがまともな扱いを受けることができなくなり、「勉強だけが人生ではない」「進学だけが勉強の意義ではない」「学校へ行くことだけが大切ではない」とまるでできの悪い臨床心理士みたいな学校サービスを受けることになります(いったい、誰が「あなたは勉強が向いていない」という権利があるのでしょうか、ましてわれわれ教員がそんなことを言えるはずもなく)。
しかし公教育はサービスの場処ではありません。そこは、〈指導〉 ― 〈学習〉の場処ではなく、〈教育〉の場処 ― の場処です。この指導性こそが、学校が社会的な親代わりになり得る唯一の基盤です。家庭に見捨てられた子どもたちが、結果的には家庭環境を批判する言葉(主体性、自発性、多様性、個性などの非認知的な、ハイパーメリトクラシー的なキーワード)によって再度見捨てられているからこそ、家庭格差がイコール教育格差となっているのが、90年代以降の35年間なのです(途中いくつかのうねりはありましたが)。
われわれは、あなたも含めて教育の当事者です。第三者が「あれは親がひどいよ」と言うのはありうることかもしれませんが、日夜「親にも連絡してあります、が、様子は変わりません」と教員から言われて、何もできない最後の教員報告となることも多いのです。しかし、これで終わりですか。むしろここから学校教育は始まるのでは。
アメリカの大統領で、「あいつは顔が気に食わない」と言って、閣僚選考を外した人がいました。「そんなことを言ってはいけません」と側近に言われたら、「40歳にもなったら自分の顔に責任を持て」と大統領は真顔で答えました。
子ども(児童・生徒・学生)というのは、「自分の顔に責任を持てない」人間、人格がまだ完成していない人間のことを言うのです。
子どもの顔はまだ親の顔です。そして親の顔とは階層の顔なのです。
子ども自発性とは階層の自発性なわけです。階層の上下に相関した自発性なのです。
子ども中心主義になればなるほど階層を再生産する強度が高まり、社会的な流動性がなくなります。態のいい子供主義は一言で言うと階層主義なのです。
子どもの主体性、自発性、個性、多様性という一見ニュートラルに見えるワードは、むしろ階層主義を助長する言葉でしかない。左翼も右翼もむらがるこの教育思想(教育心理学的な個人主義)こそが、今日の教育の衰退を招いているのでは。
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◯Aさんの学校教育についての断章 (2026/3/9)
昨日は、学校制度の中で当たり前のように続いている「学年制」について書きました。年齢という基準で学びを区切る仕組みは、本当にこれからの社会においても最適なのか。そんな問いを投げかけてみた投稿でした。
ありがたいことに、多くの反応をいただきました。共感の声もあれば、かなり厳しいご意見もありました。
その中で、特に印象に残った指摘があります。こうした議論は、結局のところ教師の責任を弱め、公教育不要論につながるのではないか、というものです。なるほど、確かにそう見える側面もあるのかもしれません。
近年、教育の世界では「主体性」「個性」「多様性」といった言葉が盛んに語られるようになりました。教師の役割についても、「教える人」から「支援する人」へ、という表現が広がってきました。しかし、その言葉の使われ方によっては、「教師が指導から退いている」という印象を与えてしまうこともあるのだと思います。
教育において、教師の役割とは何なのか。これは簡単に答えが出る問いではありません。教師は知識を教える存在なのか。学びを導く存在なのか。それとも、子どもたちの成長を支える伴走者なのか。おそらく、そのどれか一つに単純化できるものではないのでしょう。
教師が一方的に知識を与えるだけの教育では、子どもたちは受け身になります。しかし逆に、教師が何も示さず「自由」に任せるだけでは、学びは深まりません。指導することと、支援すること。この二つは対立するものではなく、本来は同時に存在するものなのだと思います。むしろ、その間にこそ教師の役割があるのではないでしょうか。
例えば、探究活動の場面でもそれは同じです。「好きなことを自由に調べてみよう」と言われても、多くの子どもたちは最初は戸惑います。何から始めればいいのか分からず、結局は表面的なテーマに流れてしまうこともあります。
だからこそ教師は、問いの立て方を示したり、考えるための枠組みを提示したり、ときどき立ち止まって振り返る時間をつくったりします。自由を与えることと、放任することは違います。子どもたちが自分で考え続けられるような「構造」をつくること。それが、教師の大事な仕事のひとつなのだと思います。
ドルトンプランでも、「自由」と「協働」という原理がよく知られています。ただ、この自由は決して放任を意味するものではありません。自分で計画を立て、取り組み、振り返る。そのプロセスが成立するように、教師が学びの環境を整えていく。
自由とは、構造のない状態ではなく、むしろ構造の中でこそ成立するものです。
もちろん、こうした学びの中でも、学力を身につけることは欠かせません。むしろ、自分で問いを持ち、試行錯誤しながら学ぶ経験は、知識を単なる暗記で終わらせず、理解として定着させるための重要なプロセスでもあります。
教師の仕事は、単なる知識伝達でも、放任でもありません。子どもたちが問いを持ち、挑戦し、失敗しながら学びを深めていく。その環境をどのように設計し、どのように関わるのか。
教師の役割とは、学びの環境を設計することなのではないか。そんなことを改めて考えています。
