昨日の卒業式で〈出会い〉という言葉が出て、難しい言葉だなぁ、と一日考えていた。


たとえば、三つのサイコロを振ったら、「1」「1」「1」と出た。「これは、ラッキー」と思うのだろうか。「1」「0」「5」と出た。「なんだつまらない」と思うのだろうか。

しかし、今回のこの時間に、111と目が出るのと、105と目が出る確率は、同じだ。同じようにラッキーだと考えないと、おかしなことを言っていることになる。

〈現在〉というのは、その意味で、貴重な時間や出会いの源になっている。同じように見えている今も、違って見えている今も、絶えず、その同じや違いの意味を変化させている。

ベルグソンは、このようなかけがいのない〈現在〉を〈持続〉〈記憶〉と呼んだ。独特な言葉遣いだが。

111と出るのも105と出るのも、この持続と記憶の発露としてのみ意味を持つ。どちらも貴重な出会いなのだ。

普通、われわれは、既存の意味に従って、111を有意味とみなし、105をつまらないとして目もくれないが、われわれの日常は、毎回新鮮な機会に出会い続けている。

それがそこにあるということは、それが唯一無二の機会において、〈そこにある〉ということだ。

ハイデガーは、それを「Es gibt」と呼んだ。訳すと、それは、「与えられてある(贈られてある)」ということ。

Es gibt 111.
Es gibt 105.

である。〈意味〉はいつも向こうから(常に既に)やってきている。このハイデガー的な「常に既に」をベルグソンは、〈持続〉〈記憶〉と呼んだ。

うーん、難しいというところで、私の昨日の卒業式は、終わった。