カテゴリ「これからの大学」の記事一覧

生成AI批判の前提について ― 誰でも間違うようにして、生成AIも間違う。

生成AIの時代になると、その回答が正しいのか、間違っているのか、判断する側の〝能力〟が問われるし、これからの教育の課題もそこが大切、とアホな教育関係者は宣うが、そんなはずがない。...

「個別最適化」学習を学校教育に持ち込むと教育格差はますます拡大する。

8月27日のFacebook投稿で、元文科大臣の下村博文さんが、以下のようなことを言っていた。 なぜ全員が同じ教科書、同じスピードで学ばなければならないのでしょうか?現在の義務教育は、全国一律のカリキュラムに基づき、子どもたちが同じ内容を同じペースで学ぶ仕組みです。しかし、理解が早い子もいれば、じっくり考えることで力を伸ばす子もいます。画一的な教育は、子どもの多様な才能を活かしきれず、結果的に学ぶ意欲を奪うリスクがあります。 そこで私は「AIドリブン学習革命」を提案します。AIの活用によって、子ども一人ひとりに合わせた個別最適化された学びを実現するのです。学びが早い子はさらに挑戦的な課題へ、つまずいた子には理解を深めるサポートを。教師は「一斉に教える人」から「伴走する人」へと役割を転換し、子どもが自分のペースで確実に学びを積み重ねられる環境を整えます。義務教育を一律から個別へ。これこそ次世...

「試験の点数」軽視と教育格差について ― 〝主体性〟〝人間性〟教育が教育格差を拡大することについて

教育の目標は「試験の点数ではない」、「点数で子供の〝能力〟を測るべきではない」と言われて、もっとも被害を受けるのは、文化的にも経済的にも貧乏な家庭の子どもたちだということを未だにわからない連中がいる。 その連中は、「知識だけ」ではなく、〝主体性〟や〝人間性〟が大切とか言いながら、文化的にも経済的にも貧乏な家庭の子どもたちを食いものにしているだけのこと。そもそも「主体性」「人間性」という科目免許を持った教員などいない。そんな教員審査もされていない。誰が何の名目で、そんな〝審査〟ができるというのか。 そもそも泥棒も主体的に(場合によっては命がけで)泥棒をやっているわけだし、戦争のような非人間的で卑劣なことを行うのも人間性と言われているものの一つです。人間的であるからこそ非人間的であることはいくらでもあります。主体性とか人間性という耳障りのよい言葉は、問題の本質を解決する言葉ではなくて、むしろ...

大学において、期末試験(履修認定)を第三者化する意義について(Spotifyポッドキャスト音声概要付き)

シラバスや教材や小テストなどをいくら充実させても、期末試験(単位認定権 )が担当教員の手中にある限り、それらは絶えず形骸化する。意味がない。あらゆる〝教育改革〟は、この試験管理(判定管理)を棚に上げたままでは、すべて空虚。逆にあらゆる〝教育改革〟は、どうやって試験管理するのかをはっきりさせてから進むべきだ。 ...

英語で論文を書く、英語で授業を行うという貧困について

東大の授業の英語化(東大大学院工学系研究科)が議論されているが、昔、柄谷行人が(日本語で思考することの不利がらみで)英語で書き始めたとき、吉本隆明が、ほんとに国際的な水準を有しているのなら、誰かがその論考を何語にでも訳してくれるさ、と揶揄していた。たしかに、フーコーと吉本隆明との画期的な対談を通訳していたのは、後に東大の総長にまで上り上がる蓮實重彦だった。...

多様性教育、個性教育はマーケティングにすぎない。

たぶん、学校教育において、「多様性尊重」とか「個性を伸ばす」とか声高に叫んでいる人たちは、単に営業しているだけなのだ。そう言わないと集まってこない、教育できないマーケットを相手にしているに過ぎない。 本来は、好き嫌いと関係なく、学ばなくてはいけないことがたくさんある学校教育の課題を正面から見据えず、また見据えることができるほどの教員マネジメントのノウハウを持たないまま、そういった体のいい営業言葉を前面化しているだけのこと。 楽しく、主体的に学ぶことは重要なことだが、それは、学ぶべきことを学ぶプロセスの中でないと意味がない。...

【第4版】大学は、〝自分探し〟の場所ではない ― 松山道後新キャンパス総合心理学部新入生歓迎11,500字講話(2025年4月26日)

●大学は、〝自分探し〟の場所ではない。 ※この講話(約90分)は、16枚のパワポスライドを使ってなされました。掲載にあたっては、その場合の箇条書きをそのまま使用しています。行間が読み込みづらいところもあるかと思いますが、ご寛恕を。 大学は、〈他者〉が何を考えているのかを考える場所。「自分」「私」なんて死ぬ直前にふと思うくらいで充分。 ここで言う〈他者〉とは、大学の先生であり、先生が典拠している書物であり、現在までの歴史の全体です。現在そのものが歴史です。 大学の先生がもし立派に見えるとすれば、それはみなさんより書物を読んでいる分だけのこと。それ以外に先生が立派な理由などありません。素の言葉で、自分の言葉で話している先生なんてくそ食らえです。先人の諸々のパワーを継承しているからこそ、先生は立派な人なのです。 勉強するということは、人類が築いてきた文化的な資産(世界と世界史)を、すべて受け継ぐ...

文字教材(※)はプレゼンテーションの一種でも、授業手段の一つでもないということについて

※本学では一コマ90分の授業で、教員が書き下ろしの文字教材(10,000字~15,000字)を使用して授業を行っています。「これを単に読み上げて授業をやるのならば、機械でも出来るではないか、板書やパワポを並行して使うのは、いけないことなのか」というもっともな議論がありました。以下にその議論をまとめておきます。  本日(4月19日)オープンキャンパスの心理学科模擬授業パワポについての私のコメントは、「(精神疾患の)診断一致率の改善を目指し、DSM-Ⅲ(1980)から操作的診断基準が導入された。操作的診断基準は、症状の原因を排除し、疾患に特異的な症状、その持続期間を明確に定めた診断基準である」というテキスト内の「操作的」という言葉を巡ってのものでした。...

今日から新入生を受け入れる「履修の手引き(の一部)」を17,000字ほど書き下ろしてみた ― 全国初の生成AI全学導入の大学「履修の手引き」。

●本学の教育の特徴(1) ― 「学生の試験点数は、先生の授業点数」 1)学生の点数は先生の授業の質が決める ― 学生の努力も先生次第 本学の教育の特徴は、「学生の試験点数は、先生の授業点数」という考え方です。 学生であるみなさんの試験点数は、すべて先生がどんな授業をやれたか、授業テーマやその進展に関心が持てる授業をやれたか、わかりやすい授業をやれたか、やる気を起こす授業をやれたか、そういった諸々の先生の取り組みの結果生まれた点数です。その取り組みが真摯であれば、当然のことながら、みなさんの点数は上がる。落第することもない。 学生が予習する、復習をする、そういった取り組みも、先生が一つの授業にどれだけ時間をかけて取り組んだかの結果です。「最近の学生は予習も復習もしない」と嘆く大学の先生がいますが、自分がまともな授業準備もしていないのに、学生が予習・復習するはずがない。 2)授業の「つまらない...

生成AIの教育活用について 、あるいは知識・スキルの定着について ― テキストの要約、詳論、問題作成の多様で多層な展開が大学教育と大学教員にもたらす効果について

ここまでの私の生成AIへの評価。 生成AIは、一つの書き物(論文や既存の文献)が存在すれば、あらゆる観点からその内容の、別のものへの変奏(言い換え)が可能になる。この〈変奏〉こそが、〈教育〉の実体。※変奏とは、この場合、シラバスへの変奏、小テストやドリル、あるいは期末試験への変奏、難易度別の教材への変奏、そして、それぞれの変奏の無限に多様な展開などを指す...

【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0

今日の大学教育の衰退について ― あるいは、「学修成果の可視化」について 教授する術を心得ていることや知を教授すること、さらには知識を生みだす術を心得ていることは、私たちが問うている古典的かつ近代的な伝統においては、作品を生みだすこととは異なる。教員自身がその作品に署名するわけではない。彼ないしは彼女の教員としての権威は、作品に対する作者の権威とは異なる。(ジャック・デリダ) ※文中に出てくる(●●●)などの表記は、その直前の語句の上に付く傍点ルビを意味します。悪しからず。 【目次】 偏差値格差をどう乗り越えるか ― 多様性教育の害悪について(〝優秀な〟学生はどんな大学のどんな教員の下でも存在している)/成果の継続的な拡大 ― 「組織的な」教育の必要性について/〈修得〉主義と〈履修〉主義について ― 試験主義と出席主義の起源/拡張された学力概念の害悪(1) ― 科目教育の軽視と履修主義...

【完全32スライド版+資料付き】「大学のずさんな授業について ― あるいは、ずさんな授業の元凶は、ずさんな期末試験であることについて(2022教育EXPO講演)

本日13日15:00より東京ビックサイトでの講演+対談(京都大学・飯吉透先生)のネタスライド(まだまだ誤字脱字含めて修正中)です。飯吉先生との対談は、このスライド講演についてのものになります。対談に引き続いて公開質問も受け付けます。WEB視聴も現地参加も無料です。私の講演のWEB視聴はすでに200名くらいの申込みがあるそうなので、私もお楽しみにしております。何と言っても『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』(晶文社刊)を出した途端にコロナになってしまい残念なままの2年間でしたから。みなさま、本日ビックサイトで久しぶりにお会いしましょう。ご参考までに27枚のスライドはすべてアップしておきます。時間内には絶対全部終わらないと思いますので。 ※申込みはこちらから(個人でも参加可能。申込み登録しておくとWEB視聴の時にパワポ含めて資料類全部ダウンロードできます) ...

大学の授業改革はなぜ進まないのか ― 大学における期末試験不正について

●大学教育(学校教育)のレベルを担保するのは、〈試験〉 1. 今日の大学の序列化は、入学時の偏差値(入学試験のレベルとその解答のレベル)で決まっており、残念ながら、在学四年間の教育力がその入口の偏差値を相対化するところにまでには至っていない。文字通り、東京大学の入学試験は「とても難しい」という評価に伴って(その入学試験を解ける大学生の〝基礎学力〟の高さによって)大学の教育評価の大半が決まっている。 2. その要因は、大学内期末試験(毎期の履修判定試験)が全国ほとんどの大学で杜撰だからだ。 3. 杜撰になる理由は、大学は〈学校教育〉最後の学校になり、上位接続がないため在学期間の教育の第三者評価(客観的な評価)が〈就職〉という、学校教育体系とは異質な評価で曖昧にされているからだ。 4. その分、大学の教育目標も形式的には立てられるが、それよりも入学時の学力(偏差値)の方がはるかに第三者的で当て...

「観点別評価」と「生涯学習」と中曽根臨教審、あるいは〈主体的な学び〉について(『シラバス論』321~331頁)

国語や英語や数学などの教科教育において、知識点数(だけ)ではなく、意欲、創造性も(共に)評価するという、いわゆる「観点別評価」が始まるのは、他ならぬ1990年代以降(=中曽根臨教審以降)の学校教育の中でのことです。 「観点別評価」を一言で言えば、知識点数は40点しか取れていないのに、20点の意欲点などをそれに付加して、履修判定のための最終「総合」合格点(60点)を出すというものです。こうやって、知識点数評価とは別に人物評価的な「観点」を加えていくと、従来は四〇点で落伍していたものが、人物評価主義的に救済されていきます。もちろん逆に100点の知識点数を有していても、50点マイナスの人物評価を受けて不合格になることがあっても理論的には不思議ではないのですが、事態はそうならず、前者の救済評価のみが1990年代以降蔓延したのです。 「知識のみならず、人物評価も」という議論の本来からすれば、(知識点...

学生は〈顧客〉ではない(『シラバス論』186~188頁)

なぜかと言えば、学校教育では、〈学ぶ主体〉などまだ完成していないのだから。むしろ〈学ぶ主体〉を形成するのが学校教育全体の目的であって ― 教育基本法では「人格の完成」いう言葉があるが、これは第一条「教育の目的」に属している言葉であって、まだ人格として完成していない子どもたちを前提とした言葉である ― 、〈学ぶ主体〉を前提にするのであれば、〈学校教育〉は存在する意味がない。 〈学校教育〉に〈学ぶ主体〉が存在するかのように思えるのは、家族や地域の文化環境(〝裕福な〟環境)のせいであって子どもそのものの力によってではない。学校教育は、家族や地域の文化環境をとりあえずは括弧に入れて、クラスに入れば子どもたちを公平平等に扱うところにある。すべてはこれからというところにしか学校教育の存在意味はない。そこで初めて、次世代を担う子どもたちは親の世代や階層(家族や地域の文化環境)を超えてあらたな階層を形成し...

大学における教育と研究との関係について ― フンボルト理念とセネカのDocendo discimus ― (『シラバス論』194~198頁)

Docendo discimus(ドケンドー・ディスキムス) は、セネカの言葉である(『セネカ哲学全集(第五巻)』倫理書簡集Ⅰ、岩波書店、2005年)。「教えることによって学ぶ(教えながら学ぶ)」という意味だが、これは西川純(上越教育大学)たちのくだらない『学び合い』教育とは何の関係もない。いつでもどこでも最高判断、最高認識が露呈する仕方で学ぶ者に接しなさいということだ。「君は君自身のために学んできたのだから」(同前・21頁)とセネカは教えることの啓蒙主義を退けていたのだから。 学ぶ者の程度を考えることは教える者自身の堕落に他ならない。「程度を考えて」教える教員は大概がその「程度」の教員に成り下がる。「わかりやすく言うと」と言いつづけて教える教員が、いつの間にかわかりやすいことしか考えられなくなることも多々ある。それは啓蒙主義の限界でもある。 一方、留保なく教えることができるときにこそ、〈...

学校教育における職業教育の諸課題(『シラバス論』351~356頁)

※本間正人さん(京都造形大学教授)との、大激論公開対談(学校教育における〈キャリア教育〉とは何か)からの抜萃。 ●二重の差別を受けてきた「職業教育」 芦田 そういった議論を前に進めるために二点指摘したいことがあります。一つは、本間先生はいま偏差値が上の方の子はキャリア教育はなくてもいいかもしれないという前提(僕もその前提を共有していると指摘されながら)でお話になっていますよね。 僕はこの問題の内部には、実は別の問題があると思います。80年代後半の中曽根臨教審、これは下村博文さん(2012年~2015年の文部科学大臣)や安倍さんが全く同じ方針を引き継いでいますが、基本的にキャリア教育や職業教育に対する差別視がある。 つまり、一方にはジェネラル・エデュケーションとリベラル・アーツというこれまでの偏差値型の軸が一本あって、今の日本の教育体系ではこれを「頭がいい」と判断します。そこで、本間さんもお...

カリキュラムの反対語は「講座制」 ― 講座制の歴史について ― (『シラバス論』70~77頁)

カリキュラム教育においては、科目はカリキュラムの〈部品〉に過ぎないが、東大に始まる旧帝大型の講座制(はるか昔、明治20年代以降に始まった)がまだ色濃く残る ― たとえ学校教育法が2007年にやっと改正され〈助教授〉が〈准教授〉になろうとも ― 今日の科目編成においては、シラバスの「詳細化」がカリキュラム開発に貢献することなどまだまだ考えられない状況だ。 天野郁夫によれば、「講座」の名称が登場するのは、明治23年の「大学令案」(文部大臣は第三代芳川顕正)らしい(『大学の誕生』中公新書、2009年)。当初の大学(教育研究組織)は、学部と学科の「二層」だったが、「大学令」以来、学部・学科・講座の「三層」になり、この「講座」に「教授・助教授・助手」が張り付いたのである。今からみれば、これが大学における学部や学科の求心性を殺ぐ教授主義の起源なのだろう。(※4)...

「大学の多様性」と「学生の多様性」と ― 「多様性と標準性の調和」(2008年)から「多様性と柔軟性の確保」へ(2018年) ― (『シラバス論』49~68頁)

「専門」教養とか「一般」教養、あるいは専門教育と一般教育などのありそうでなさそうな区分ももう一度考えるべき時なのかもしれない。四年間全体が教養教育だと言えば言えるし、四年間全体が柔軟な職業教育だとも言えるこの時代に、学部教育(学士課程)のカリキュラムをどう考えるのか、そこにしか〈専門〉と〈一般〉との区別を考える手がかりはない。 佐藤学によれば、大綱化までの日本の大学は、アメリカの大学の教養課程+ヨーロッパの大学の専門課程を足して二で割ったような体裁(アメリカ型四年教養教育の二年縮減型+ヨーロッパ型四年専門教育の二年縮減型)を取っていたが、設置基準の「大綱化」により、「教養教育が軒並み衰退」した。「それほど教養教育の教官が恵まれない状況に置かれてきたということです。予算といい教育の状況といいノルマといい弱い立場に置かれてきた。そのために一挙に崩れた」ということになる(「教養教育と専門家教育の...

先生が「答えを教える」授業はダメな授業なのか(『シラバス論』240~251頁)

(…) 一方、潮木守一は「最近では『わかりやすい授業』とは『勉強しなくてもわかる授業』、『予習しなくてもわかる授業』、『先生が答えを教えてくれる授業』になってきている(…)人間が長年にわたって学問にかけてきた努力と情熱を真っ向から否定している」という「ベテラン高校教師」の言葉を報告している(前掲書『大学再生への具体像(第二版)』)。 しかし、これはためにする批判のような気がする。パワポ論のところでも書いたが(二章五節)、授業という場所はどんなに資料(コマシラバスを含めて)を「詳細」化してもメタ情報 ─ それ「について」語るというように ─ が絶えず発生する場所である。詳細化の度合いは、そのメタ情報の質をどんどん高めてくれる。詳細に書き出した内容(の水準)を踏まえてメタ化が発生するからである。 詳細化すればするほどメタ情報は高度化する。書物、教科書、文献、教材資料、あるいは実習設備など、それ...