●本間正人さん(1959年8月東京生まれ)の経歴   

    東京大学文学部社会学科卒業後、松下政経塾第三期生として入塾し、松下幸之助の経営哲学を学ぶ。ミネソタ大学大学院修了(成人教育学博士、Ph.D.;戦略プランニング修士号、Master of Planning取得)。米国Coach University 課程を修了し、国際コーチ連盟(ICF)認定プロフェッショナルコーチ(PCC)資格(日本人初)を取得。 Corporate CoachU International から認定ファシリテーター資格、Case Western Reserve University Weatherhead SchoolからAI(Appreciative Inquiry)Certificate取得。
TOEICは990点満点。
    「教育学」を超える「学習学」の提唱者であり、「楽しくて、即、役に立つ」参加型研修の講師としてアクティブ・ラーニングを25年以上実践し、「研修講師塾」を主宰する。京都造形芸術大学教授、NPO学習学協会代表理事、NPOハロードリーム実行委員会理事。コーチングやポジティブ組織開発、ほめ言葉などの著書65冊。
    ミネソタ州政府貿易局、松下政経塾研究主担当、NHK教育テレビ「実践ビジネス英会話」「三か月トピック英会話:SNSで磨く英語アウトプット表現術」の講師などを歴任。TVニュース番組のアンカーとしても定評がある。一般社団法人大学イノベーション研究所代表理事、アカデミックコーチング学会会長、一般社団法人キャリア教育コーディネーターネットワーク協議会理事、一般財団法人しつもん財団理事、などをつとめる。

    【キャリア教育とは何か】

    ●「キャリア教育はくだらない」という出会い

    本間 まず僕自身の紹介をすると、いま京都造形芸術大学という大学のカリキュラム開発の担当をやっております。いつの間にか芦田先生と同じような仕事になっちまったな、と思っているのですが(笑)。

    そもそも、僕と芦田先生の最初の出会いは大変に衝撃的でした。ある日、ツイッターで「キャリア教育は大切だよね」ということを書いたら、突然、芦田先生に絡まれた(笑)。たぶん芦田先生は「キャリア教育」って発言するやつを軒並みピックアップしていて、「キャリア教育なんて言っているやつはバカだ、アホだ、ダメだ」っていうツッコミを入れていたんです。「何ですか、この人は!」と最初は思うわけです(笑)。

    コーチングにおける「傾聴」のスキルというのは、相手の言うことを否定しないところから入る。自分の意見とは多少違っていても、「うーん、そういう考え方もありますよね」と受け止めるところから始めないと人間関係が作れません。人間関係を作れないと、部下の指導育成もできなければ、社会生活を送っていくのもやっぱり難しいじゃないですか。

    そこで何度かやり取りをして一度会いましょう、ということで丁度私が「朝日ニュースター」という、朝日新聞社が当時持っていたCS局で「ラーニング•プラネット」という番組をやっておりました。

    怖いもの見たさみたいなものもあって、その番組に出演していただきました。最初は、キャリア教育の歴史的経緯などをお話しされてお行儀良くされていましたが、最後は結局、「キャリア教育はくだらない」と。やっぱりそう来たか(笑)、というふうになったんですよね。

    僕の芦田宏直評っていうのは一言で言うと「哲学者である」ということです。哲学は多くの大学の授業においてもう思想史の授業になっていて、「ヨーロッパの哲学者は、こういった文献でこう言いました」っていうのを年表作って文献紹介や文献研究して終わりになっていますよね。

    ところが、芦田先生は違う。今時珍しい、たぶん生まれてくるのを二千五百年くらい間違えた、哲学「者」ではないかと思うのです。つまり「哲学する」という動詞をやり続けている人だろうと。それはある意味、社会生活や社会的な成功はもう二の次、三の次、四の次、おまけに付いてきたらいいくらいの価値観ですね。ソクラテス流に言えば「無知の知」というか、「あなた、ホントにそれを本気で考えているんですか、あなたが使っている言葉について、その意味をわかって言っているの?」と、頼まれもしないのにチャチャを入れる(笑)

    芦田 チャチャを......(苦笑)

    本間 この「頼まれもしない」というのは、愛情とも言えるし、とんでもないおせっかいとも言える。実際のところ、僕もツイッターで芦田先生をブロックしています(笑)。ツイートは読んでいますし教えを請いたい部分はあるけれども、芦田先生のペースでチャチャを入れられた日には僕の社会生活が破綻します。


    ●学校は「職業」を考えなくていい場所だった

    芦田 本間先生らしいご紹介をしていただいてありがとうございます。僕の方からの、本間先生の紹介については、私よりもはるかに著名な方ですし社会的な活動のみならず、官庁との連携も比較にならないくらい精力的にされているので、その種の紹介は一般的なプロフィールに委ねます。ただし私の狭い交流の中でも何人かの知人の松下政経塾の議員たちに聞くと、彼らが一致する本間評は「松下政経塾の天才」という言葉です。先ほどのテレ朝の番組でご一緒したときも、当意即妙な、本間先生の「天才」ぶりが印象に残っています。

    さて「哲学『者』論」は、また別の機会にさせていただくとして、まず、その、本間先生との出会いの元になった、「チャチャを入れた」キャリア教育について(笑)。

    概念的に「キャリア教育」と呼ばれているものは、経産省が使う場合の「キャリア教育」、文科省が使う場合の「キャリア教育」などと色々な文脈で語られていますが、今日の本間先生との文脈での、文科省が使う場合の「キャリア教育」は二〇一一年の答申(「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」)できちんと定義されてきています。ただそのどこに照準を合わせればいいか、みたいな細かい話しはちょっと置いて、その文脈で話しますと、〈キャリア教育〉とは、幼稚園•小学校•中学校•高校•大学までの学校教育体系、つまり学校教育法の第一条に設置してある〈学校〉体系の中で「社会との接続を意識した教育をやりなさい」という社会的な要請から生まれてきた言葉です。それが非常に大きな浮力として働いている。

    このことを、仮に「キャリア教育」と言っておくとしましょう。一言で言うと、学校教育体系に於ける職業教育を〈キャリア教育〉と言うのです。だから専門学校などの具体的な職業教育とは違って、職業的「自立性」のための〈キャリア教育〉ということになる。

    色々な歴史的経緯があるので簡単には言えませんが、小・中・高・大における、高校までのジェネラル・エデュケーション(国語•算数•理科•社会•英語)の上に積み上がっているのが、大学のリベラル・アーツです(※)。リベラル・アーツは、例えば国語であれば太宰治をやるとか、英語であればシェイクスピアの研究に入っていくだとか、社会であればマックス・ヴェーバーをやるとか、高校までのジェネラル・エデュケーションを更に専門教養的に特化したものになりますね。
    ※ジェネラル・エデュケーションとリベラル・アーツとの厳密な関係については「シラバス論」を参照のこと。

    この体系の中においては、リベラル・アーツにしてもジェネラル・エデュケーションにしても、どこまで掘り下げても社会接続の要素はないわけです。せいぜい理屈を付けるとすれば人類の歴史的・文化的資産を受け継ぐくらいのことにしか社会性はない。つまり学校教育の純粋な体系の中には、社会との接続性は全くない。これは学校教育の特殊性・固有性と言っていい。

    それに対して、二〇〇六年春、第一次安倍内閣の時に教育基本法が改正されて、「教育の目標」の中に「職業」という言葉が入ってきた。その流れの中で、〈キャリア教育〉が学校教育体系の中に課題として整備される必要が生じてきた。要するに、ジェネラル・エデュケーションとリベラル・アーツという学校教育体系のきちんとした伝統の中に、社会接続の要素を入れていけ、という流れです。これを「キャリア教育」というふうにいま呼んでおきますが、この流れに僕はすごく違和感を持っています。


    【大学全入時代とキャリア教育】

    ●高偏差値学生にキャリア教育は必要なのか?

    本間 いま、一部の偏差値の高い学校を除いては、本当に大学全入時代になってきていますよね。今までなら高校を卒業して仕事に就いていた人たちが、高校卒業生の就職枠が十分の一になったことで大学生になっている。ここ一〇年の間に、子どもの数は減っているにも関わらず、大学の数は増え続けて、大学生も一〇年前の五割増しになりました。そのせいで、本当は大学に行く準備が出来ていない人まで「大学」という名前の教育機関に入っています。

    東大、京大、早稲田のように自分の大学から、自分の大学の教員を輩出できる大学はキャリア教育はやらなくていい、それらの大学への進学者をたくさん出している名門私立高校も、「キャリア教育があるとすれば偏差値を一点でも上げて名門大学へ入学させることだ」と思っているわけだから、キャリア教育論が直接にはかみ合わないという芦田先生の従来からの主張については、私は全く同じ意見です。

    ただ偏差値が下の方の学校は、専門学校とある意味同じで、「キャリア教育」をやらないといけない。それに案外、偏差値が真ん中あたりのところも、そして中学•高校でもキャリア教育は必要だと思っています。もちろんキャリア教育が玉石混淆であるのも現状ではたしかにそうなのですが。

    しかし「何のために学ぶのか」について、社会では特にコミュニケーションの力とか、人間関係を構築する力が求められているということを学生のうちに知らしめておくことは本当に大事だと、私は思っているんです。就職対策に過ぎないものを「キャリア教育」と言われると辛いものがありますが、社会の中で、こういう力が求められるぞっていうことだけは、大学生、高校生、中学生にも、知らせておきたいですね。だからキャリア教育を全否定されちゃうのは辛い。


    芦田 〈学校〉というのは社会的な「ニーズ」と関係なく存在してないといけないものです。あくまでも、何のために勉強しているんだろうっていうことを、生徒や学生たちに問わせてはいけない聖なる領域が〈学校〉という場所でしょ。

    やっぱり、社会に出る前の若い人たちに、長い時間にわたって我慢させて勉強させることで、「役立つことばかりが世の中で生きていく目的ではない」と叩き込むのが小学校から大学までの学校教育体系なんです。

    本間先生が言われる、コミュニケーションの力のような「人間力」は役立つことから一旦距離を置くところからしか生まれない。〈学校〉の定義を教育学概論なんかで、ギリシャ語のスコレー(暇)から来ているなどと言いながら中途半端に教えたりしていますが、そういう役立つかわからない「暇」や「退屈」に耐える力の育成が学校教育の教育力だと思います。

    そういうことは、産業構造の変化や学生の多様化論(=18才人口の減少による大学全入論)とは別の原則論です(※)。むしろ変化や多様が声高に叫ばれる今こそ、この原則は堅持されるべきだと思います。
    ※「多様な学生」の時代における大学論については本稿「シラバス論」を参照のこと


    ●機能主義的な学校教育を逃れられるか

    芦田 ところが現状はそれとは逆に、「機能主義(ファンクショナリズム)」的な学校論が今の主流となっている。

    だから本間先生の言われる「人間力」のようなものがもしあるとすれば、そういった社会的な関数から人間を切り離せる力のことを言うのだと、僕は思います。逆に〈動物〉は自分の環境とファンクショナル(機能主義的)に結びついた生き方しかできない。

    たとえば〈図書館〉という存在はファンクショナルな関係から最も隔絶された場所ですよね。小学校から大学の二〇歳超えたところまで、「何に役立つか」という問いを一切禁じて、長いインプットの状態を継続的に体系的に、若い子たちに提供していく。これが、「新しい」世代の形成の場所として学校教育が持っている一番オーソドックスな意味であり、僕は〈新人〉の発掘こそが学校教育の使命だと考えています。〈新人〉は社会的「ニーズ」に逆らってしか誕生しない。

    ファンクショナルな学校論では、次世代を形成する新人は生まれない。そこには反応主義的な消耗しかない。

    いまは世の中の流れがすごく早くなってきて、四年間在籍して大学を卒業すると、ほとんど世の中が変わっていた、要求されることも変わっていたというようなことがいつでも起こりうる状況です。だからこそ、「役立たない」ことをじっくりやるっていうことの持っている有用性(●●●)はすごく高まってきていると僕は認識しています。

    学校は「校門と塀」によって、社会的な消費の場所から隔絶された場所として存在しています。それが次世代(ながーい先)の人材を作る要諦なんだと思います。

    小学校からお金の仕組みを学んでいく「よのなか科」なんて嬉しそうにやっているリクルート上がりの校長がいましたが、学校教育は社会と関係なく勉強できる唯一の時間なんですよ。人類の文化資産や世界性をまずは吸収するところです。答えがないことを教えることが重要だと最近さかんに言われてますが、それは社会的なニーズをまずは遮断するということなんです。新しいこと(●●●●●)や必要なこと(●●●●●)を人類の文化資産や世界性を参照して見出すことが、大学までの学校教育の意義です。そうすると、ちまたで騒がれていることは、少しも新しくないし、必要でもないことが見えてくる。そのこととクロスして、〈新人〉が生まれてくるのです。

    そういう純粋な空間を純粋な空間としてどれくらい生きていけるかが、次世代の新人を形成する場所としての学校にとってはすごく大切だと思います。それが、いま騒がれている「キャリア教育」が学校教育にとって本当にくだらないと思っている一番大きな理由です。

    本間 「くだらない」(苦笑)。学校空間について言うならば二つありまして、一つはプラトンが作ったような純アカデミア、小・中・高・大学まで一貫して世俗から隔絶され、役に立つかどうかわからないことをやり続けるという学校が、全国に三校、五校あってもいいんじゃないかなとは私も思います。

    ただ二つ目としては、世の中の学校が全部純アカデミアというのは賛成しがたいし、現実問題として無理でしょう。小・中・高校で「役に立たないことをやるぞ」っていう掛け声に対応して「役に立たない勉強をやります!」っていうふうに思う学生は、ほとんど居ませんよね。ふつうは辞めちゃいます。

    もちろん、辞めさせないのが教師の力量だと芦田先生は言うかもしれませんが、芦田宏直が三〇人くらい揃っている、ちょっと嫌な学校なら学生を引き止められるのかもしれない(笑)。しかし、三〇人も四〇人も、芦田先生の引力と強引さを持っているファカルティを揃えることは現実問題として無理ですよ。

    ●「つべこべ言わずに勉強しろ」という時代ではない

    本間 むしろ、これまで日本の教育で問題だったのは、学校の先生方が、学校という非常に特殊な空間しか知らなかったこと。そして、子どもたちに「勉強しろ」って言うんだけれども、「なんで勉強しないといけないんですか?」って言われたときに、「いや、とにかく勉強しろ」としか言えない。

    確かに、入学試験が一定の社会的な選別の役割を果たしていて、いわゆる「良い」大学、「良い」就職が生涯賃金と比例していた時代は、頑張っただけ良いことあるよと言われて子どもたちも納得できた。ところが、いわゆる良い大学に入っても、必ずしも幸せにはなれない、不祥事が起これば最初に辞めなきゃいけない、そもそも早稲田でさえ、これだけAO入試をやるようになって、何を保障しているのかわからないという状況になっている。何のために勉強するのかということについて、やっぱり社会との接続っていう概念を入れないと、先生の「つべこべ言わずに勉強するんだ」という力技だけでは子どもたちはついて来れないと思うんです。

    それに今までは、社会の中に知識を得て、自らの能力を高める場所が学校機関しかなかったのかもしれない。しかし、今は知識を得るだけだったらe-Learningがふんだんにあって、最近取り上げられているMOOC(Massive Open Online Course)では卒業資格までは得られないけれど、ハーバード、スタンフォード、MIT(マサチューセッツ工科大学)なんかの学部の授業を単位認定までは無料でしてくれるんです。そうすると、「その学校に行って勉強する」という前提条件自体がどんどん崩れていくだろうと思います。また、そういう社会に適応していくためには、社会の動きを普通の学校の先生以上に敏感に捉えて自分の学びを設計できる力がむしろ必要なんじゃないでしょうか。

    そういう意味でも、なるべく早い時期に自分が出ていく社会に対する見通しを持たせることが大事なんじゃないかと思います。もちろん多くの場合、学校の先生はキャリア教育ができない。だから外部のコンサルタントとか、キャリアカウンセラー、あるいはキャリア教育コーディネーターが学校にお手伝いに行って、この地域の中ではこういう職務体験ができます、こういう会社やこういう組織団体とコラボできます、というような出前授業をやってもらう。そうしたら、今度生徒が生物や物理を学ぶときに、歴史や地理を学ぶときに何らかの意味づけをすることができますよね。

    カリキュラムと実社会とのつなぎとして、学校の先生ができないことを結びつける専門家をもっと養成する必要があると思っています。要するに社会から隔絶された聖なる空間っていうのは、①無理、②そうでない方が望ましい、と私は思うわけですね。


    【できない子どもほど大学へ行くべきだ】

    ●大学全入時代が持っている可能性

    芦田 だいぶ僕と本間先生との違いがはっきりしてきましたね(笑)。僕は「全入時代」っていうのは大賛成なんですよ。僕の経験でも、大学に入ったときに、国語とか歴史とか英語で、いかに高校や中学校、あるいは小学校の先生が私に間違ったことを教えてきたか、ということをすごく感じました。さすがに大学の先生だと。その意味では大学の先生で嫌な先生は一人もいなかった。みんな研究者然としていたし尊敬できたわけです。

    だから大学の授業はどれもすごく新鮮で、英語だと「前置詞の専門家」みたいな人がいるわけですね。その人は「俺は前置詞の専門家じゃないよ、onの専門家だ」とまで言う。それで二〇年くらい研究し続けているような人がいる。英語も「リーダー(読解)の先生」だとかなんかじゃなくて、フォークナーの専門家がいたりして、その人の英語の講読授業では一年生のときから、フォークナーの英語を読む。アメリカ人でもめったにフォークナーなんて読まないですから、これは「メリーさんは自転車に乗って街中を走っています」みたいな英語じゃないですよ。フォークナーで論文書いている先生が、『エミリーに薔薇を』をリーディングの授業で読んでくれて、こんなに楽しいと思ったことはなかった。

    前置詞についても高校までは、天候のitと、時間のitと、代名詞のitなんて、わけわかんないことを教えられてきたでしょ。他にも、toが原型動詞をとったら不定詞で、名詞用法と副詞用法と形容詞用法があるとか、toが名詞をとったら前置詞のtoとか、そんなバカな教え方をする先生は一切いない(笑)。僕もそんなに悪い高校じゃありませんでしたけど、それでも、そんな教え方しかしない先生に囲まれて勉強してきました。

    ●高校までの秀才なんて全然秀才じゃない

    芦田 高校生諸君に、大学進学どうするかみたいなことのレクチャーをする機会もあるんですが、いま高校生で、「俺は頭が悪い、勉強ができない」って思っている子がいっぱいいるだろうけど、高校までの勉強で「秀才」って言われているやつは、バカだと思うべきなんですよ。あんなに単調な教え方をされているのに、それでも勉強に食らいついているわけだから(笑)。そんなのを「秀才」とか言っちゃだめでしょう。

    その意味で、高校までの英語は英語を知らない人が教えている、くらいに思って丁度。英語以外でも事情は同じです。だから高校までの勉強で「勉強は苦手」なんて決めつける理由はどこにもない。「勉強は苦手」は、勉強が本当に好きな大学の先生に教わってから決めればいい。大学を終わってから出す結論だと僕は思います。まだまだあきらめる必要はない。

    本当の勉強っていうのは「何の役にも立たない」こと、(たとえば)前置詞のonについて、土日も深夜も考え続けることですよ。大学にはそんな変態がいっぱい居て、大学院の修士ゼミの(僕の恩師中の恩師である)高橋允昭というデリダ研究者はavecっていうデリダが使った前置詞の訳をめぐって、二行くらいの文章を一年間かけて考えさせてくれました。二行のフランス語、しかも一つの前置詞のためだけに一年をかけたんですよ。こんなことは高校までの授業ではありえない。

    こういう時間のかけ方を大学教育と言うべきなんですよ。何が〈学士力〉だ、バカにするなと私は言いたい。こういった経験を一度やると、その薫陶を受けた学生たちは、一生、文章を大切にするだけではなく、言葉そのもの、助詞の一つ一つを大切にするわけです。「分かりやすい文章を書きましょう」なんて言うコミュニケーション授業とは何の関係もないわけです。この種の講義を請け負う講座屋はたいがい言葉の重みをバカにしているわけです(笑)。一番、コミュニケーションに遠い。もちろんこれは大学院の授業のことですが、学部の授業であってもそういった萌芽はいくらでもあります。同じ先生が教えてたりしているのですから。

    高橋先生はその文章の翻訳を出版社から頼まれていたんですが、一年間ゼミでその検討をやったけども議論は結局決着つかない。僕の訳の方が絶対正しいと思ったんですけども、もう先生は最後は意地になって「絶対に俺の方が正しい」と言うんです。でも出版されてみたら、僕らが言った訳文になっていました(笑)。もうお亡くなりになりましたけど、いい先生でしたね。高橋先生のお陰で、一つ、一つの言葉にこだわる根性みたいなものを学べました。それが、「勉強が面白い」ってことなんですよ。

    ●「できない子ども」は「できない先生」の犠牲になっている

    芦田 確かに、この全入時代にリベラル・アーツの大学はどこまで成立するんだっていう議論はありますけど、むしろ「勉強ができない」子たちは先生の(専門性のなさの)犠牲になっています。教員の専門性というのは、趣旨や意味や歴史や語源から、勉強を理解させる能力です。名門私立学校なら、そういう教員はいくらでもいる。できる子どもたちほど、理解しやすい授業を受け、できない子どもほど暗記や知識中心の(できる子どもたちよりも学習課題としてはむしろ難しい)単調な授業を強いられる。だから先生を尊敬する契機も少ない。ここに手を付けない教育改革はほとんど意味がない。

    「できない子どもに無理して勉強させることなんか必要ない」という曾野綾子的なエリート主義は、少なくとも大学出るまでは判断を控えるべきなのです。

    専門学校などが(単なる遅れてきた受験勉強に過ぎない)資格教育をやる場合にも、受験勉強が一番不得意な先生たちが教えるものだから、すごく不合理な教え方を強いられているわけです。「ここは試験に出るから覚えておけ」「試験に出るからマーカーを付けておけ」とか言うように。いまどき予備校でもこんなバカな教え方はしません。資格の専門学校は資格教育さえ出来ずに、学生たちに苦行を強いているわけです。

    ツイッターやFacebook見ていたらよくわかりますけど、土日には家族と遊んでいる写真を挙げている先生がいるでしょ(大学にもそういう先生がいないわけではないですが)。大概の大学の先生は、休み(スコレー)の日こそ自分の研究の時間なのにですよ。だからそういう先生の犠牲にならないためにも、「できない」人たちには大学に行かせて、真空状態で、日夜勉強(趣旨や意味や語源)のことしか考えてない先生たちの話を聞かせるべきなんです。もちろん高校や中学の先生たちにも勉強熱心な先生たちはいるんでしょうけれども。大学に行く意味は、根っから勉強が好きな先生、根っから言葉を大切にする先生に出逢えることでしかない。そのことに偏差値の高低は関係ない。

    ●引退した地域の名誉教授が小学生に、かけ算とは何かを教えればいい

    芦田 死んだ吉本隆明が、数学の引退した名誉教授が地域の小学校に行って、掛け算、割り算とは何であるかとか、掛けるとなぜ面積が出るのかとか、足すとか引くってことはどういうことなのかという話を教えれば、算数を嫌いな子なんて一人も居なくなる、と言っていましたけどその通りです。つまり、「何の役に立つのか」という実用性の方へ逃げたりしない、〈学び合い〉的なアクティブ・ラーニングに逃げるのではなくて、かけ算そのものの意義を理解させることの方がはるかに重要なのです。

    僕は「役に立たない」って意味で〈退屈〉だって言っているので、勉強には面白さ自体はいくらでもあるんです。そんな、天候のitと時間のitと代名詞のitがあるって教えられたら、もうたまったもんじゃないですよ。そんなitあるわけないんだから。itはitなんだから。itなんて、それをフロイトのエス(英語でitの意味をドイツ語ではEsと言う)なんかと一緒に教えることができる教員がいれば、面白いに決まっている。

    だから、高度な専門教育をやっていくと、いま中学校、後期中等教育(=高校)までで、「学力」や「偏差値」と言われているものが、ガラッとシャッフルされる可能性が出てくると、私は思います。だいたい学校の先生なんて、社会でキャリアを築くことが一番不得意な人たちが集まっているんだから、下手なキャリア教育、不得意なキャリア教育なんてやめたほうがいい。外から連れてきたって、ろくなことはない。

    大学出て二二歳になって急に「先生」って呼ばれて、どうやって社会性を身につけるんですか。無理に決まっている。それだったら、英語の先生にもっときちんと英語の勉強をしなさいと言った方が分かりやすいし、彼らも本気で取り組める。

    本間先生は別だけど、キャリア教育やっている人間も、本間先生もよくご存知のようにいかがわしい人ばっかりなわけですよ。リクルートくずれだとか、会社では相手にされなくて、講座屋になっちゃっている人とか。あの人たちは資料のパワーポイントをハンドアウトでなかなか渡さないじゃないですか。どこでも同じもの使っているからですよね。渡しちゃうといい加減なことがバレちゃうし、パワーポイントを更新するわけでもない。講座の時間で調整して、このスライドは間引いとくとかいうことやっているだけだから。

    ●コミュニケーションの本質は、意見を言わない〈分別〉

    芦田 一方にitやtoの教え方もまともじゃない状態がある、一方に社会的にもまともじゃない講座屋さんがキャリア授業を用意する、そういう授業をやり続けると、できない子たちは二重、三重に「勉強が面白い」というきっかけを持てないわけです。社会をテーマにしようが、英語をテーマにしようが、「できない」生徒・学生たちは三重苦みたいな状態で社会へ出て行くから、もっと役立たない人たちばかりができてくるわけですよね。

    そういう中途半端な勉強受けた人たちがツイッターをやっていると、原子力で問題が起こったら原子力のことを偉そうに論じはじめ、アベノミクスがはじまったら金融政策や消費税のことを知ったかぶりして話しはじめる。テレビに出てくる評論家(コメンテーター)たちも、どんな話題にでも"解説"を加えたりしているけど、そうなると一般の人たちと同じで、情報元は新聞や週刊誌や検索ネタ話に留まる。でも、大学時代に「toもなかなか意義深いな」っていう経験を一回させておくと、ちょっと簡単にアベノミクスについて話しちゃまずいから、ここは一言言いたいけど黙っておこう、あるいは出直してこようぐらいな〈分別〉はつくようになっていくわけですよね。すぐにとびついて、風を読みながら炎上ネタに加担したりはしない。

    この〈分別〉がコミュニケーションの源(みなもと)なんです。あるいはこの〈分別〉こそ〈教養〉だと言ってもよい。何についても意見を言って、反応すればいいっていうファンクショナルな関係ではなくて、それを遮断したことによる面白さやその種の遮断(分別)から始まるコミュニケーションみたいなものがすごく大切になります。これは本間先生とは違って、できない子どもたちほどそういった機会を与えていかないと、日本の若者たちの将来は総崩れする可能性がある。

    だから、とにかく、「勉強は不得意」と思っている人たちほど大学へ行くべきだし、もちろん教授たちは、「どのレベルに合わせればいいの?」というような啓蒙的な教育をやるんじゃなくて、目一杯、自分の専門性を活かした教育を提供するべきなんです。最近では、「バカな子どもに合わせる」と言いながら、自分自身がバカになっていく先生がたくさんいます。先生たちの偏差値自体も落ちてきている。

    「バカなやつにonだけ教えて何になるんだ」っていうのが今の風潮です。グローバル時代っていうのは安倍さんによれば英語が喋れる人のことを言うらしいけど、そんなバカなことあるわけないじゃないですか。英語なんかアメリカ人はバカも含めてみんな喋っているんだから。そんなアメリカ人をもう一人作るだけでしょう。だけどonのことをわかっているアメリカ人はいない。フォークナーだって読めているアメリカ人はいないんだから。大学全入時代の認識、という意味で言えば、そこが、僕と本間先生との間ですごく噛み合ってないところだと思うんですが(苦笑)。


    【大学教育のグランドデザインとしての職業教育論】

    ●「社会のことを知らない」という悲劇がある

    本間 芦田先生が早稲田に入ってフォークナーとか、onの先生に対して、純粋学問の面白さを感じた。それはやっぱり、いい先生だったんだと思うし、いい学生だったと思う。多少変態入ってたとしても(笑)、いい相性だったんだと思うんですね。

    ただそれがどれだけ普遍化できるかと言うと、僕は心配というか、だいぶ疑問だと思います。やっぱり、世の中の学校はいま学級崩壊なんて本当に当たり前です。芦田流に言えば「バカな子にこそ本格的なリベラル・アーツの授業をやるべきだ」。これは授業として成立しないだろうと思いますね。もちろん、成立したらどんなに素晴らしいだろうと心の片隅で思うんだけれども、無理だよ、成立しないよと思うのです。

    確かにキャリア教育には実際に色んなバックグラウンドの方が入っていて、質を保障できてない面もあります。今僕が理事をやっている「キャリア教育コーディネーターネットワーク協議会」というのも全く完璧ではありません。

    でも少なくとも学校に入っていくプロと呼ばれる人たちは、学校教育法についても知っておかなくてはいけない、教育委員会の仕組みとか、学校の先生が、ここまではやれるけどこういうことはやっちゃいけないというご苦労もちゃんとわかっている。そしてカリキュラムの組み方とか、地域資源の発見の仕方とか、基礎的なことになるけれども子どもたちの学習心理も踏まえた上で指導されています。今の学校の先生方がキャリア教育に対応できないのであれば、やはり外部の人材が必要だし、さらに外部の人材の品質を少しでも高めていく取り組みがあるわけです。

    やっぱり就職って何するんだ、仕事ってどうやって選ぶの、上場企業とそうでない会社がありますよ、というようなことをどこかで教えなきゃいけないわけですが、就職活動やっているときでさえそれを知らないというような悲劇、喜劇が現実にもう起こっています。こういうことを少しでも減らして、子どもたちの将来への見通しを立てる能力を高めていくためにキャリア教育の役割っていうのは大きいと思うのですよね。じゃあキャリア教育を否定したとして、純粋な学校教育っていうのも存在しないじゃないですか。

    ●二重の差別を受けてきた「職業教育」

    芦田 そういった議論を前に進めるために二点指摘したいことがあります。一つは、本間先生はいま偏差値が上の方の子はキャリア教育はなくてもいいかもしれないという前提(僕もその前提を共有していると指摘されながら)でお話になっていますよね。

    僕はこの問題の内部には、実は別の問題があると思います。八〇年代後半の中曽根臨教審、これは下村博文さん(2012年~2015年の文部科学大臣)や安倍さんが全く同じ方針を引き継いでいますが、基本的にキャリア教育や職業教育に対する差別視がある。

    つまり、一方にはジェネラル・エデュケーションとリベラル・アーツというこれまでの偏差値型の軸が一本あって、今の日本の教育体系ではこれを「頭がいい」と判断します。そこで、本間さんもおっしゃるように、シェイクスピアやエリオットやフォークナーなんて、偏差値四〇の学生にやらせたってしょうがない、という意見を仮に認めるとしましょう。この意見を、私は曾野綾子主義と呼んだりもしています(笑)。

    そして、その「偏差値の低い」子どもたちに、シェイクスピアやエリオットやフォークナーを諦めさせて、「上場企業とは何か」とか「社会で働くとはどういうことか」とか「親になって子どもを養育するとはどういうことなのか」みたいな話しはしなきゃいけない、そう本間先生もお考えになっていますよね。そういった文脈が、今の「キャリア教育」の文脈です。つまり、できない子どもたちが差別されているのと同じように「キャリア教育」も差別されているわけです。

    一方で、私立名門校の教員たちは東大へ合格させることが最良のキャリア教育だと考えている。一方で、「できない子にはせめて社会接続準備のキャリア教育くらいは」という認識が存在している。職業教育はそうやって、(一九七五年の専修学校制度の発足以来)二重に差別され続けてきたわけです。「職業教育」っていうのは、そんないい加減なものでいいんですか、というのが私の、もう一方での問題意識です。

    つまり、キャリア教育の文脈は、専修学校が、"できない子どもたち"の受け皿であったようにして、この変化と多様性の時代においても、ふたたび"できない子どもたち"の受け皿としての機能しか持たされていない。できない子どもたち領域に特有な教育というかたちで、キャリア教育を学校教育に持ち込んでいることにも、私は反対なんです。

    実際、職業教育に特化した大学としての「新たな機関は、トップ層ではなく中堅・中間層をもっとレベルアップするためのもの。正規分布の真ん中にいる人のレベルを上げることが重要」「新機関の入学生は、恐らく入試圧力を受けておらず、勉強の習慣が身についていない学生が多く入ってくる」などといった審議委員の意見が公開されているところからも、この新大学が「職業教育」に期待する質がうかがい知れるわけです。

    その意味で言えば、僕は、むしろ逆に「できない子」にはフォークナーやエリオットをやらせて、「できる子」には、きちんとした職業教育をやるべきだと思います。だって、〈教養〉なんて後期中等教育で偏差値がそこそこあれば、相当な教養でしょ。だから教養の有無は、できない子どもたちの必須の課題なんです。むしろ。

    重要なことは、高校卒業時点で、高度教養教育に進路を定めるか、具体的な高度職業教育に進路を定めるかを、対等な(●●●)立場で選択する体制を作ることです。今の進路指導は、勉強が嫌いなら専門学校か、短大の資格教育みたいな進路選択になっている。職業教育は差別されているわけです。偏差値の高い子どもたちの選択肢としての職業教育が存在していない。

    ●偏差値七〇のための職業教育カリキュラム

    芦田 結局、偏差値七〇の子であってもやる気が起こるようなシステムエンジニア教育だとか、あるいは在庫管理の専門家を作るとか、マーケティングの専門家を作る、ファイナンスの専門家を作る......実はいまの大学にはこういう動機が全くないんです。石原都政の時、専門高校の進学校化という魅力的な施策が打ち出されましたが、これも成功していない。結局、そこそこの大学の教育学部を出た先生たち自身が「そんなバカな」と思ってしまうからです。本気で打ち込めない。

    だから例えば「自分はシステムエンジニアになりたい」、「アーキテクトになりたい」と言って、早稲田の理工学部(今では理工学術院)に入っても、熱力学の授業を受けたり機械工学の授業を受けたり材料工学の勉強をしつつ、自分の受けたい授業は週に四単位あるかないかです。あとは地頭がいいから、書店でプログラムやシステムエンジニアリングの洋書を買い、むこうの専門のIT技術の勉強を自分でやっていく。だけど、大学に行って、自分のやりたい授業がほとんどないというのはおかしいでしょう。

    僕が一時カリキュラム開発でご協力頂いた鷲崎弘宣(早稲田大学理工学術院准教授)っていうオブジェクト指向の、日本を代表する優秀な研究者がいるけど、その鷲崎さんのオブジェクト指向論を学びたいと思って早稲田に入っても、鷲崎先生の授業がずっとあるわけじゃありません。もし彼の講義やゼミを100単位履修して卒業すれば、就職後の10年間くらいの社内研修講師ができるくらいの実力が付くでしょうが、そうはなっていない。

    日本の工学部教育では、一番職業教育に近いところでもまだ自分のやりたくない授業をやらされるんですよ。国立大学になると必修単位もちゃんとあって、職業的なことを意識しているところはありますけど、日本のほとんどの大学生をカバーしてる私立大学には、優秀な学生が小躍りして集中して行くような専門家を作るカリキュラムは存在していない。すごく勿体ない状態になっているわけですよね。もっと専門の先生がついて、システムエンジニアになるための一〇〇単位の必修授業、あるいはマーケティングの専門家になるための一〇〇単位の授業、あるいは在庫管理の専門家になるための一〇〇単位の授業を早稲田や慶応の商学部でやっちゃえば、〈キャリア〉ってことに対する考え方が、もっと違ってくると思うんですね。〈学士力〉なんてわけのわからないものをわざわざ言う必要はなくなる。

    ●〈卒論〉が存在する大学はカリキュラムが存在しない

    芦田 いま、卒業要件の最低単位要件は一二四単位ですが、僕が調べた範囲では、私立大学は偏差値が高い大学も低い大学も、必修単位なんて一〇単位から二〇単位しかありません(選択必修というまやかしのような科目群はいくつかありますが)。四年間で一〇科目くらいの必修単位しかなくて、〈人材〉なんか作れるわけがない。これには、他の原因もあって、必修科目をたくさん作ると「多様化」した学生の履修単位が留年がらみで積み上がらないため、退学者増加の危険を避けたい、という思惑もあるわけです。

    逆に言えば、選択科目がたくさんあれば先生たちは科目のクラス経営にずっと鈍感でいられるということ。二重三重にカリキュラム意識が希薄になっているのです。

    だから、僕は本間先生の今の話し方で言うんだったら、全く逆のことが言いたいわけです。日本のキャリア教育の問題、あるいは職業教育の問題を論じるのであれば、大学教育に〈人材〉を作るカリキュラムが存在してないってことです。〈卒論〉というのもカリキュラムが存在しないというのを自己暴露しているような制度です。

    各科目が講座主義的に分断されていて科目間連携が縦にも横にも存在しない。敢えて積み上げがあるとすれば第二外国語の語学の授業くらいに留まっていたのです。各科目が縦にも横にも関係のない概論授業に留まっているが故に、「卒業論文」という外面的な接着剤のような仕掛けを作って、学士タイトルの代替としてきた。これがカリキュラムの不在を長い間補ってきたわけです。今では卒論さえ指導できない大学が増えてきている。長文を書かせる経験という意味では、〈卒論〉の存在に意味はあるのですが、根本の問題は、カリキュラム問題です。

    一方で医学部や法学部には元々〈卒論〉がない。それは国家資格に関わった科目の指定性が高いからです。その分カリキュラムらしきもの ― 「らしき」ものというのは、資格カリキュラムに過ぎないのですから、概論講座の集積であることに変わりはないからです ― が存在することになる。その点では学校外〈資格〉で囲い込まれている専門学校に卒論がないのも同じ事態です。


    ●〈人材〉教育の反対語は、〈教養〉教育

    芦田 さてそこで、一番職業教育から縁遠いと思われている文学部の社会目標は何かって言ったら、アメリカの大統領の就任演説の原稿を書けることだろうなと僕は思います。

    あらゆる歴史論や文化教養論を総動員して、国の大将が決まった時の就任演説で国民のナショナルアイデンティティを鼓舞するような文章を書ける教養のある人間。オバマの就任演説を聞いていて、こういう文章を書ける人ってどういった教育を受けた人なんだろうって思っていました。アメリカ大統領の就任演説を文学部を出た人たちが書いたことになると、それはその大学の文学部のすごいキャリア教育になるだろうなと思います。

    文学部におけるキャリア教育でもこうやっていくらでも考えることはできるんですが、文学部よりもはるかに実践的な商学部や経済学部で日本のエリートと言われている人材を作っている高偏差値の大学があるのかって言ったら、皆無です。だからもし文科省が「キャリア教育」と言うのであれば、高偏差値の社会・人文系の学部を、〈人材〉を作ることができる学部に再編するべきでしょう。

    例えば、一橋大学の商学部はファイナンスの専門家を作る、慶応大学の経済学部はマクロ経済学の専門家を作る、ということをやって、一度、全ての大学の教授の専門家をシャッフルして、それぞれの大学がどんな専門家を作るのかを言わせて旗上げをするんです。

    一九九一年の大学大綱化による「特色ある」大学作りとはそんなところにその趣旨があったのだと思います。ところが最近の学科や学部の設置認定であっても、取得できる「学位の分野」を、たとえば「経済学」に指定すると、「マクロ経済学」も「ミクロ経済学」も(科目として)用意していないのに、なんで「経済学」と言えるんだ、と指摘を受けたりもします。要するに「体系的」カリキュラムということと「有機的に」積み上げるカリキュラムというものとが混同されているわけです。

    私の専門分野の哲学でも、ギリシャ(アリストテレス)、中世(トマスアクィナス)、近・現代(デカルト・カント・ヘーゲル)、現代(ハイデガー)の哲学研究者がそれぞれ講座を有していて、それ全体が哲学科の「体系的」カリキュラムでした。しかし、これでは〈人材〉は育たない。

    こういった体系性を教育体系だというのなら、街の本屋さんで手軽に得られる哲学史入門書を一冊丁寧に読んだ方がはるかにましです。つまり現存の文科省管理の「体系」的カリキュラムがイメージしているものは、文字通りのディレッタント的な教養です。しかし〈人材〉の反対語こそが〈教養〉なのです。

    ●どんな学生でも一〇〇単位を学べば〈人材〉になる

    芦田 もちろん一〇〇単位の授業を一人のファイナンスの専門家じゃやれないじゃないですか。一〇〇単位分語ろうと思ったら、一人で博士論文一〇本ほど書かないできないでしょうから大変です。だから、各大学は、それぞれの分野の専門家の授業を数単位ずつ置いて、「体系的」とか言っているわけです。そのせいで、商学部入っても、在庫管理もやる、マーケティングもやる、簿記・会計もやるなんてことになっている。だから〈人材〉を作れない。

    しかしどんな学生でも100単位の必修体系の中で学べば、〈人材〉に育ちます。その単位数なら博士課程の前後期課程をはるかにしのぐ単位数だし、博士課程は「自立」的に考える分自由時間が多いといっても、ろくな「学士課程教育」を経てこないのですから、本来は修士の単位数なんて倍以上あってもいいくらい。だから文系であれば学士課程が現在の博士課程〈人材〉をしのぐことなどそんなに難しいことではない 。結局は、教員が専門(大学院)の中でも概論主義的に分断されているから、〈人材〉を育てる必修体系ができないのです。

    最近の設置要件では「学位の分野」を聞かれたりもするから、概論講座をそこそこ揃えておかないと「設置基準を満たさない」とか言われたりもする。大学の専門性というのは、そういった諸々の意味を込めて一義的に解決できない問題を含んでいますが、しかしそんなことばっかり言っているといつまで経っても〈人材〉教育が出来ない。教養主義的に各科目がバラバラに走って最後は卒論で終わるしかない。「カリキュラム・ポリシー」という言葉がはやりはじめてもう10年くらい経ちますが、必修授業が20単位しかないカリキュラム・ポリシーなんて存在しうるはずがないのです。
    ※「単位」と「体系」との関係については、本書「シラバス論」を参照のこと

    ●カリキュラム改革が進まないのは、教員人事問題

    芦田 そういうデタラメをやり続けるのは、今の大学の状況では、カリキュラム問題が教員人事問題に直結するからです。僕は、大学教授こそ、国家的な規模で(あるいは国際的な規模で)人材バンクに帰属させるべきだと思います。大学の研究者を大学内の籍から解放する、ということです。そうじゃないと〈カリキュラム・ポリシー〉なんて存在する余地がない。そもそも大学の先生たちほど、組織帰属性に薄い人たちはいないのだから。スペシャリストであればあるほど組織帰属性は薄い。大学の伝統や永続性という課題と、スペシャリストの集団であるその教員たちの伝統帰属性という問題とは、時として矛盾したり敵対したりする要素でもあるのです。

    結局、自前で有機的なカリキュラムを作ろうとすると、カリキュラム・ポリシーに貫かれたシラバスの詳細化(90分一コマ単位の詳細コマシラバス化)のために、先生たちは自分の専門から少し外れたところのシラバスやコマシラバスを書かざるを得ない。だから〈教育〉と〈研究〉とが分離してしまう。だから〈教育〉も〈研究〉も中途半端に終わる。時代の「ニーズ」と「変化」に、大学も敏感であれ、と言われますが、ここにメスを入れない大学改革などありえないわけです。


    【職業教育の実践性とは何か】

    ●「職業実践専門課程」という名前の付け替え

    芦田 一方、ほとんど必修科目ばかりの専門学校は、〈人材〉を作れているかというと、今度は官許的な資格カリキュラムのため、大学の講座主義的な概論主義とは別の意味で、相互に関連のない科目の掃きだめのような概論主義になっています。大学も専門学校も概論主義と言う点では同じです。だからどちらも〈人材〉を作れない。

    これまで専門学校は「専修学校専門課程」だったんですが、新しく四つ目の課程として「職業実践専門課程」というまたいい加減な課程ができました(2013年)。「いい加減」というのは、「職業実践専門課程」と言いながら、そのタイトルは従来通りの「専修学校専門課程」の〈専門士〉に留まっているからです。タイトルが変わらないというのは、中身の水準も変わらないというのと同じです。

    専修学校「一条校化」の過程での、その断念の果実が「職業実践専門課程」と言うしかない。タイトルの変わらない、この新名称を冠することによって、専門学校って、もともと「職業実践」専門課程(=専門学校)じゃなかったのか、じゃあ、何をこれまで教育してきたのかという不信を逆に招いたわけです。

    それはさておいて、「職業実践専門課程」の申請条件には、業界の代表者と、大学の先生に代表されるような関連分野の研究者、実務をやっている人という三層の外部委員をカリキュラム委員会(正しくは「教育課程編成委員会」)に入れて、実践的なカリキュラムになっているかどうかのチェックを受けないといけないことになっています。その会議で、調理師学校の外部委員のお話を聞く機会がありました。大変有意義なお話を聞かせていただきました。大変有名な中華料理店の委員の方が辻調(辻調理師専門学校)のメンバーに面白いことを言うんです。

    ●ピーマンの切り方が、習った切り方と違う

    芦田 例えば調理師学校では、ピーマンは繊維の目に沿って切れってことを必死になって教えてくるけど、この中華料理店では、繊維に沿って切らないらしいんですよ。繊維を切るかたちでピーマンは切るんだって。もうそこで一所懸命専門学校で勉強して、優等生で育ってきた子たちは優等生であるがゆえに萎えちゃうらしい。

    もちろん、基礎になるような実践的な技術教育は絶対教えておいて欲しいが、わりと小さな調理事業所であれば、やっぱり包丁の使い方でも師匠のやり方みたいなのが結構色濃くあって、ちゃんと勉強してきた優秀な学生ほど、そこで萎えちゃうところがあるようなんです。だから、技術教育の一本槍ではできない、実践的な問題があるんだっていう話をしみじみとされてました。

    例えば食品衛生だとか、食品の法規だとかについては実は逆に現場は疎いところがあって、現場はそんなこと一々勉強しながらやっている場所じゃない。だから一番ちゃんと教えて欲しいのは、むしろ法規だとか理論的なことなんだという話しをされました。実は専門学校の関係者は全然そのことに気付いてなくて、専門学校は実習でしょ、と思い込んでいる関係者が多い。現場から一番期待されている理論的な授業では、専門学校の学生は皆寝ていることが多い。むしろ、講義授業の机の上でいかに頬っぺたに跡を付けずに寝るか、みたいな「技術」を絶えず鍛えている(苦笑)。

    ●新鮮な卵ばかりが、調理の現場の卵ではない

    芦田 もう一人、そのときの外部委員(食文化研究家)の意見を紹介したいと思います。

    実務の現場では、たとえば、卵一つにしても、辻調の学内実習のように新鮮な卵ばかりが使えるわけではない、様々な理由で鮮度の落ちた卵を使わざるを得ない場合もある。そうすると、ある意味理想的な食材環境で学んできた辻調の学生の料理の技術がたちまち頓挫する場面も多々出てくる。〝上級〟の食材で学ぶのではなく、〝中級〟〝下級〟の食材や環境で学ぶことが職業教育本来の実践的な教育ではないのか。そもそもほとんどの学生は、上級食材の環境では仕事しないのだから、というのが、その委員のアドバイスだった。

    卵の鮮度を変えた実習授業、実務の現場の、食材を含めた環境を意識した実習こそが、専門学校の職業教育には必要なような気がする、という指摘です。

    しかし、「そこに、問題はない」というのが辻調側の見解でした。

    なぜか。

    「学校で教えることは、『おいしい』という味(「おいしい」ということのストライクゾーン)が何かを教えることであって、まずいときにどうするかの前に、『おいしい』とは何か、ということを教えることが学校で学ぶもっとも重要なことだというものだ。

    そのことなしに、鮮度や食材の質の問題をやっても、小技の話に留まる。そもそも満点の鮮度や食材なしに、どうやってその崩れを修正するのか。小技の修正こそ、実務の現場で学べばいいことです。『おいしい』ということが何かをわからないままの、経験的な小技しかない実務現場はいくらでもあるのですから、というのがそのときの辻調の立場でした。満点の鮮度や食材で学べるということこそ学校でしか体験できないものだし、その本源的な体験こそが現場での小技の修正の原点だというものです。

    ここでも"実践性"の意味がうまくかみ合っていないのです。変化に対応できる「応用力」なんていう意味で、先の卵の例などは分かりやすい話に見えますが、実はそこに本来の実践性はない。「ストライクゾーン」を外さない経験を学生時代にさせる。それがあらゆる食材評価や食材調理の基本になっていくということ。

    たしかに、調理や製菓の事業所(就職先)なんて、小規模なところも多いから、ストライクゾーンと言っても、ゆるめのストライクゾーンの事業所も多いし、経験主義的な外れもある。大将の自己満足に終わっているところもたくさんある。そんな事業所で鍛えられたら(これからキャリア形成する若者にとっては)悲劇であるに違いない。キャリア教育における〈学士力〉や職業的「自立性」というのは、この種のストライクゾーンの経験なのであって、多様対応を多様教育で実施すると ― この教育タイプを「即戦力」養成と言います ― 、使い捨て人材になるわけです。

    実務の現場は色んな意味での〝多様性〟にまみれている。食材のクセ以上に、味のクセ(外れ)にまみれることの方がはるかに危険。その意味で本来のストライクゾーンをきちんと学ぶには学校しかない。この種のストライクゾーンはむしろ実社会に出ると身につけづらいものなのです。"ほんもの"の味が分からないのに、ごまかすもなにもない。"ほんもの"の卵の味もわからないのに、「味の落ちた」卵もなにもない。

    そもそも、離職者が多くなるのも、その種のストライクゾーンの経験がないからとも言えます。ストライクゾーンの経験さえあれば、自分の務めた事業所がどんなところであっても、どんな食材で料理を作るにしても、ぶれずに仕事に、味の求道に集中できる。ストライクゾーンの経験があるからこそ、目先の多様性に一喜一憂せず道を究めることに邁進できる。

    何度も言いますが、文科省が今回の新大学を作るときに使うキーワード、職業的「自立性」というのも、本来はこういうストライクゾーンの経験の有無にかかわっています。職業的「自立性」というのは、ストライクゾーンを外さない経験を若い内にさせるということなのです。文科省の言う〈学士力〉のような社会人になるための一般的な能力を身につけさせるためのものではない。

    ●「多様性」対応の本来の意味

    芦田 その意味で言えば、道を究めるというのは、多様性や応用性に、むしろ埋没しないということを意味するわけですよ。学校教育が『基本』教育だというのは、基礎教育や入門教育のことを言うのではなくて、実務の多様性に惑わされない〈基本〉を身につけさせるということ。その手前の実践教育とか即戦力教育というのは、逆に、実務の多様性に埋もれてしまい新卒離職者を増やしてしまっているわけです。ピーマンの切り方の差異も、そういう意味での「多様性ショック」と関わっている。

    今の専門学校も大学も、口を開けば「コミュニケーション能力」なんて言うけど、そこには自立した職業人の像や基本は存在しないということですよね。そもそも、この意味での「コミュニケーション」というのは多様性に対する反応能力のことだから、ここで言う〈基本〉の反対語なわけです。即戦力論も実践的職業人育成も、実務現場で半年か1、2年も経てば摩滅するような〝訓練〟をやっているだけなわけで、それこそが新卒離職者が増える元凶だと、僕は思っています。

    多様性対応は、多様な教育を行うことによって解決するのではなくて、専門的な基本教育こそ重要ということですよね。実務家さえも〈実践〉の意味を分かっていない、と。

    【偏差値一軸に留まる進路問題】

    ●偏差値七〇の職業教育が始まらない

    芦田 要するに具体的な人材像を描かなくてはならない専門学校でさえ、職業教育観が噛み合っていない。何が「実践的」なのかっていう問題を履き違えているところがいっぱいある。現場からすれば、いまさら、資格学校でしかない専門学校に実践的な技術教育など期待しない。それは現場で教えればいい、だから理論的な教育か、社会人基礎力みたいなことを(とりあえず)やっておいてもらえればいい、ということになる。

    しかし、現在の専門学校の教員資格では、理論的な教育をできる教員などいないし(その領域は非常勤教員が多い)、社会人基礎力もまた経験的にしか教えることができない。いずれにしても具体的な人材像を形成できないまま"理論と実践"との股割き状態に陥っています。

    一方で偏差値の高い領域の職業教育は、工学部系の一部を除いて、その端緒にさえ立てていない。何をやったらいいのか全然わからない。だから、偏差値の悪い子が「俺は実は大学に行きたいんだ」とか高校の進路指導部で言ったら、バカなこと言いなさんなって話しになるし、偏差値の高い子が「専門学校へ進学して調理師になりたい」とか言ったら、「それはもったいない」ということになる。中の下の高校なら、専門学校進学率をどう大学進学率へと転換するかが校長や進路指導室の評価になっていたりもする。

    つまり偏差値一軸で、低い人は専門学校、高い人は大学へ行けということになる。大学全入時代になると、偏差値の高低さえも崩れて経済格差しか議論されなくなるという現状がある。その一方で、偏差値七〇の職業教育っていうのはまったく緒についてない。だから文科省は「グランドデザイン」っていう言い方を、新大学の制度化議論の初期にはしていましたけど、偏差値七〇の学生に耐えうる職業教育体系っていうのは何なのか、というところに早く手をつけていかないといけない。


    ●「三流がある」ことは大学のプレゼンス

    芦田 アジア全体に労働市場が広がっているときに、高度職業教育、中域の職業教育、勉強は不得意だっていう生徒への職業教育、その三層型がないままに、勉強が不得意なところだけの職業教育になると、職業教育やっているところの質が上がっていかないんですよ。一流があるから三流があるし、三流があるから一流があるわけです。

    ところが現状、専門学校っていうのはざっくり言えば、サイズが違うだけでやっていることは全部同じなんです。いつも専門学校はオープンキャンパスで、「三流の大学行ったってしょうがないだろう」って、高校生や保護者に訴えているんですけど、専門学校は一流か二流か三流かさえわからない状態です。逆に三流大学があるっていうのは大学のプレゼンスの一つですよね。専門学校はそういうふうにさえ分化できていません。「三流」以前なんです。つまり〈教育〉のプラットフォームにすら立てていない。せいぜい〈訓練〉止まりなんです。文科省から「教育の質が低い」と言われても誰も文句を言おうとしない。

    なぜかと言うと、専門学校は日本の職業教育を担ってきたと思われがちですけど、実際は非文科系官庁(経産省、厚労省、国交省など)のプレゼンスとしての資格教育をやってきただけのこと。資格はその場合、学歴の代替指標だったわけです。生涯学習的な資格教育を学校教育の体裁でやり続けてきた組織が専修学校だったわけです。

    大学既卒で専門学校に入ってきたような優秀な大学生は、専門学校の授業を見て後悔してますよね。資格勉強としては、ちょっと出遅れ気味な予備校くらいな感じに過ぎないのですから。そこをどうやって突破していくかが課題になってくる。長くなりましたけど、私の結論としては、「できない子」には、フォークナーを。「出来る子」には、在庫管理で一〇〇単位の授業をやるのが、キャリア教育の位置づけだというふうに思います。この議論が今回の新大学論ですっぽり抜けているところです。


    ●教室の中だけでは学べないカリキュラムがある

    本間 あんまり芦田先生の意見と違わないんですけどね。だから、繰り返しになりますけど、ジェネラル・エデュケーション、リベラル・アーツだけやって、職業教育のない大学が全国に三校、五校、聖域のようにあってもいいとは思います。ただ、全部同じようなものになったらもったいないし、その枠にはまらない子たちが苦労すると思うんです。

    旧制の大学、昔は一橋が東京商科大学だったり、その前は東京高等商業学校だったり、秋田鉱山専門学校だったり、札幌の農学校だったり、それぞれの分野の、一つ一つの山の頂点だったんだと思うんですよ、鉱山学部であり水産学部であり農学部であり。でもそれがみんな総合大学というくくりになって、どこも似たような特色のないものになっちゃったのはすごくもったいない。やっぱり百花繚乱、色んな大学があってしかるべきだと思う。

    辻調っていうのはある意味専門学校の中では一番ブランド力があって、国語・算数・理科・社会っていう軸でないところで、「僕は料理界の東大に行く」っていうのがポスターだからね。そういう一つの山意識を持っている、珍しい専門学校です。

    僕自身はデジタルハリウッドの四大の客員教授もちょろっとやりましたけれども、デジタルハリウッドは専門学校からスタートして、株式会社立で、大学院大学を作り、その後四大も作った。デジタルハリウッドの大学院大学は、他の大学出て、やっぱりデジタルとかCGとかのことをやりたいけど、いまさら専門学校じゃないよね、っていう子を受け入れるために、親も説得しやすいから大学院大学を先に作った。現状なかなか苦労されてますけれども、そういうアプローチはあってもいいと思う。

     それから、偏差値七〇以上の子がやるキャリア教育でも、少なくとも二、三ヶ月、工場の生産管理の現場に行って、インターンシップを取るくらいのことがないと、たぶん机上の空論で終わるでしょう。「二、三ヶ月で何がわかるんだ」っていう見方もあるんだけども、二、三ヶ月行って、なるほど教科書に書いてあったのはこういうことね、っていう現場との接続があって初めて、意味のある一〇〇単位になるんじゃないかなと思いますよ。

    そういう意味でもやっぱり、教室の中だけの学びではなく、実地体験、実務体験、労働体験みたいなものとマッチングした、社会との接続したカリキュラムっていうのが、あらゆるレベルで必要なんだと思いますよ。


    ●一流の学校を目指すことは「理想論」ではない

    芦田 まずは本間先生の前半の議論について。つまり「一流の」学校ばかりあってもしようがない、という問題は、私の議論によく向けられる議論です。専門学校の関係者も大学の関係者も、私に向かって、「お前の教育論はいつも理想論、高度教育論ばかり」と(笑)。いつも怒られています。

    しかしそんな人たちにこそ、「あなたたちが押さえているいまの現状から、最後にはあなたたちはどこを目指して走るのか」という話を僕はやっているわけですよ。だから、「万年、私たちの経営マーケットはダメ学生。そこは割り切らないと」とうそぶく経営者は、全国の専門学校、大学にたくさんいますが、ダメ学生を教育するノウハウは、万年同じなわけない。少しずつでもノウハウを蓄えていくはずです。徐々によくならないとすれば、それらの〝学校〟はダメ学生を食い物にしているだけです。

    資格教育に徹する専門学校であっても、そしてその合格率が一〇〇%の全国一の専門学校であっても、最初はその一〇〇%を達成するのに二年間かかったが、次の年は一年と半期に短縮した。さらに次の年は一年間で達成した。その短縮の過程をカリキュラム改善と言い、FD(Faculty Development)がまともに機能していると言うわけです。その短縮の目的は資格プラスアルファの教育に1年間の時間を費やせるようになるためです。最終のカリキュラム改善の結果、当初の二年間は一年目の夏休み終了時までに縮減できたわけです。偏差値四〇の学生でも、カリキュラムさえしっかりすれば、教員の勉強が追いつかないくらい成長します。

    現在の(どんなにひどい)専門学校であっても、資格を持たせれば仕事ができる、と思っている教員は誰一人いません。その気持ちを全学で共有するとすれば、資格教育は早々と済ませる、というのが〝現実的〟な道です。資格を取らせるのが精一杯(の学生の〝現状〟)、という学生の能力評価は、そういう教員の教育力の〝現状〟の吐露でしかないわけです。この教員たちにして、この学生たちという〝現状〟の方が深刻です。

    その深刻な現状であっても、「資格を取らせるのが精一杯」クラスの学生が六〇%いる〝現状〟で、どう五〇%にするか、どう四〇%にするか、という課題は充分、「現実的」なわけです。

    そういった目標はそれ自体永続的に向上するはずなのです。そもそも資格教育機関のマーケット原則は、自動車学校がそうであるように「安・近・短」です。その継続的な努力を重ねれば、他の学校が二年かかるところ、うちは一年で合格させる、と言う学校になるのも夢ではない。そんな学校に学生が集まらないわけがない。

    そうやって、僕の経験でも三年間の継続的なカリキュラム改善で、JAVAやオラクル一〇〇%合格教育を二年間から一年間に短縮したのです(それも偏差値四〇の学生を相手にして)。最後には教えた教員より高い点数で合格する学生が出てきました。そうするとまずは就職先が変化し、人事部自体がその情報を嗅ぎつけて「学生を欲しい」と寄ってくる。就職先の質が上がる。卒業年次の4月末で就職率は一〇〇%(もちろん在籍数分母で)になりました。その成果を元に学生募集も毎年前年二〇%ずつ上がっていく。次の段階では志願者倍率の向上が目標になる。

    だから、たとえ〝現状〟が「理想」とかけ離れていても、そこを一つずつ脱皮していく方向性はたえず検証しなくてはいけない。これを理想論と言って片付けるのは逆に〝現状〟の悲惨が見えていないわけです。自己点検評価とか第三者評価というものの根本的な動機は、経営者が教育に関心をもつことだ、と言った経営者がいますが、まさに裏返せば、経営者はなかなか自らの学園の教育の現状が見えていないのです。「理想論だ」なんて言い続ける限りはますます見えない。

    そもそも〝一流〟の学校も〝三流〟の学校も入ってくる学生はほとんど同じ学費を払い続けているのだから、どんな学校であっても、〝一流〟を目指す体制(体制と言わないまでも動機)は存在していなければならない。それにそもそもどんな〝一流〟の学校も大学も、最初から〝一流〟であったわけではない。

    さらに言えば、職業教育については、「理想」を言う人さえいない。職業教育の(学校教育における)グランドデザインなど皆無なのです。〝新しい〟大学である専門職大学議論が右往左往したり、熱気がないのはそのためなのだから。つまり、先ほども言ったとおり、〝一流〟〝三流〟以前の現状主義なわけですから、一言で言えば、それは怠惰に過ぎない。だからダメな子どもの受け皿を考える必要がある、というのも怠惰な議論であって、ダメな学生がダメなのではなく、ダメな教育関係者がダメなのです。このままでは専門職大学も新しい大学版専門学校になってしまいます。


    【実習教育と「人材」の問題】

    ●インターンシップが機能しない理由

    芦田 二点目の問題は、本間先生の言われたインターンシップ教育の是非です。インターンシップ教育の課題は、実社会に出て、実際仕事を「実践的に」するようになっても、摩滅しないような体験性の核は何なのかを考えることです。実務に慣れることがインターンシップの意味ではない。慣れるという意味でなら、誰だって時間をかければ慣れるのですから。そんな相対的なスピードの短縮に、貴重な大学や専門学校の時間割を割くわけにはいかない。

    つまり五、六年、一〇年すれば、誰でもわかるようになるOJT的な実践性ではなくて、その種の経験的な慣れを絶えずブラッシュアップしていくことができるような核ですよね。それが学校教育における職業教育の実践性だと思う。四〇歳になっても自分があの大学の、あの在庫管理の授業で聞いたことが生きている。それがなければ同じ職場に居ても、自分はこんなふうにはなれなかっただろうな、と思える要素を、大学の在庫管理カリキュラムを作る人たちは考えなきゃいけない。たとえ、Amazonの倉庫に半年インターンシップに行っても、なお、「Amazonの在庫管理はまだまだ改善の余地がある」と言えるような体験の更新性がインターンシップの教育課題になります。

    今の大学教育におけるインターンシップは本間先生も肯定されてはいないと思いますが、FDの立場から言わせてもらうと、あの一ヶ月なんてあってもなくても同じようなもんだ、ということがいっぱいあります。ただ学生が寝ていないだけいいというくらいな。しかし、講義授業において学生が活発に発言し、誰ひとり寝ていない授業でさえ、試験をやると何一つ身についていない授業を、僕はいくつも見てきました。「活発」とか「寝ていない」とか「眼が活き活きしている」と言うのは、それ自体三流の授業評価なのです。

    大体、学校の先生が企業に頭下げて、なんとか受け入れて下さいよ、みたいにうるさく言い始めると、企業側は、うちは学校じゃないからそんな面倒なことまでやってられないよ、みたいな仕方で、押したり引いたりを繰り返しているわけです。特に講義を逃げて「多様な」授業に走る低位の大学なんて、実績がないから企業に強く要望なんか突きつけられない。

    結果、子どもを預かる託児所みたいなインターンシップしか実現しない。大学内から学生を放り出して、大学(研究室)が静かでいい、なんて(先生たちが)言っているのが今のインターンシップの現状だから。もっと悪く言えば、専門学校では普通の講義をやるとみんな寝ている。だから"実習の専門学校"と言われることになる。それと同じように、大学も「多様化」して ― 文科省が大学の「多様化」というのは、ダメ学生に備えろ、という意味です ― 、講義がもたなくなった。そのかわりアクティブ・ラーニングやインターンシップなどの「多様な」授業が出てきた。
    ※「多様性」の意味については、本書「シラバス論」を参照のこと

    要するにどちらも〈講義〉が成り立たないという事態を肯定してしまっているわけです。もちろん講義授業が成り立たないくらい荒れている全入授業を放置して、インターンシップだけは機能している、なんてことはあり得ないわけです。

    ●実習教育は時間つぶしか手抜きでしかない

    芦田 最近では(デフレ不況の時に流行ったのですが)、ひどいインターンシップがあって、企業が学生をとりあえずインターンシップという名の下に働かせて、その評価がよければ就職できる、というものまで「インターンシップ」と呼んだりしています。大学でも専門学校でも。これは、実利的で、先ほどの託児所のようなインターンシップよりもまだましなように見えますが、そんなわけない。これは学生を純粋な個人としてみていて、その個人評価の結果が就職であるわけです。大学や専門学校のカリキュラムや教育の成果は、この種のインターンシップにおいては評価以前として否定されているわけです。企業優位な就職の典型が、この就職直結型インターンシップ。教育側も人事部も手抜きしているわけです。

    だから、大学が「外へ出る」出方っていうのは、たぶんほとんど時間つぶしか手抜きです。専門学校の実習授業と同じでそれらは摩滅する時間でしかない。コアになる、体験の核を形成するような職業教育のカリキュラムをどうやって作っていくかという課題からの逃避でしかない。

    僕は自動車整備科を有する専門学校の校長もやっていたことがありますけども、彼らの入社したディーラーにクルマを預けたりすると、そこで卒業生に出会うわけです。僕がそこで聞くのは「学校の実習授業で習ったことは、実際このトヨタのディーラーでどれくらいで終わった?」って聞くと「まあ三ヶ月くらいで消えちゃいました」って言うわけです。

    今の専門学校の実習教育は、色んなことを教えなきゃいけない二〇歳になる前の学生たちに、現場なら三ヶ月くらいでマスターできてしまうような実習教育(職業訓練的な教育)しかやれてない。だからそのときから、実習授業改革にかなり取り組みました。


    ●「規制産業」的な資格学校群の囲い込み

    芦田 これは国交省とか、厚労省だとか、経産省などの資格主義的な囲い込みが非「一条校」の専門学校にむかっていて、意味のない実習授業やインターンシップを官許的にやらせていることの悲しい末路です。だから、専門学校で二年後に出てくる子たちよりも、高卒で働いている子たちのほうが、はるかに「即戦力」的な仕事はできる。

    結局、その二年のカリキュラムは完全に官庁の資格主義的な囲い込み、文科省から外れてしまっている専門学校の囲い込みのためであって、日本の学校の職業教育はまさに官許的な規制産業にすぎないわけです。

    そういった官許的な囲い込みのための〈教科書〉だって全部分担執筆ですから、何の熱気もないし、人材像もない。専門学校や資格の学校は、分野ごと、分野内部の細分類によって構成された諸科目の概論教育をやっているだけで、もう全然人材像がないんです。学生も遅れてきた受験勉強みたいなものをやっているだけで、自分はこれで仕事ができそうだっていう自信はなかなか持てない。

    挙げ句の果てに就職が決まれば出席率も悪くなる。この空虚な経験は、僕の方が本間先生よりも現場経験が長いと思うので、単に「社会接続」と言っても、ややこしい問題がいっぱいあるよということが言いたい(笑)。インターンシップをやればなんとかなるとか、学生たちが寝ないで活発にやっていれば何とかなるというものではないのです。

    本間 縦に一〇〇単位の摩滅しないようなカリキュラムを作るのと、それに対して実習を充実させるっていう観点から言うと、実習を充実させる方が現実的ではないかなと思うのですね。

    芦田 でも、そのときにピーマンの切り方どうするんですか(笑)

    本間 実習にも当たりはずれは絶対あるのですよ。でも、それはおなじくらい、大学や専門学校での教員と学生との相性っていうのも結局ありますよ。

    前置詞のonもフォークナーも、芦田宏直にとっては面白い、興味のわく、わくわくする話しだったと思うけど、おなじ教室の中で寝ていた学生の方がむしろ多かったんじゃないかしら。

    芦田 いや、僕は不良にフォークナーを教えたいですね(笑)。『エミリーに薔薇を』の南部の暗い雰囲気っていうのは、いわゆる偏差値四〇の人たちの世界ですよ。

    本間 それで、「うわー、こういう勉強やりたい」って思う子がいる可能性は本当にあると思うんですよね。だから偏差値で輪切りにして進路決めるのがナンセンスだっていうのは全くその通りでしょうけどね。


    【「学校教育」と「生涯学習」との違い】

    ●学歴主義反対と最新学習歴主義

    本間 僕は「学習学Learnology」というのを提唱していて、「最終学歴」という言葉を死語にすることが目標です。ここも、芦田先生とは違うところだと思いますけどね。「最新学習歴」が大切になってくると思う。

    この大学、この学校を出たら学位が出ますというのは、現状、文科省の便宜上の形式的な取り決めに過ぎません。例えば僕らの話を聞いても、学位が出るわけじゃないですね。しかし何かそこで気づきがあり、何かそこで学びがあれば、最新学習歴を更新したことにはなっている。

    やっぱり最終学歴という考え方は、教育学習のチャンスが社会的に極めて少ない資源で、かつ学校とかにフルタイムで所属しないと、なかなか知識や技能を身につけることができない社会では一定の意味があったのかもしれない。しかし今は自ら学ぼうと思えば、Google、Wikipedia、MOOC(ムーク)......様々な学習資源がそこらじゅうに存在していて、自分の学びは自分で、どのタイミングからでも学び続けることができる。

    芦田先生が二〇代くらいの若い時代を大切にする、僕はそこにロマンティシズムを感じます。でも、やっぱり開花時期というのは人によって違っていて、一〇代で学びに開花する人もいれば、二〇代で、四〇代、五〇代、六〇代で、いま学びが本当に面白くなったっていう人がいてもいいと思うのですね。実際そういう人がいらっしゃると思う。今まで自分はこういう職業人生を送ってきたけれども、今本当に、このフォークナーの面白さがわかるんだ、っていう人生があっても全然いいと思うし、現実にそういう人が多いんじゃないかな。だから、あまりこの二二歳までの時を特別視しない方が、偏差値で輪切りにするような発想からもっと自由になれるんじゃないかなと思うのですね。

    芦田 本間先生の「最新学習歴主義」とはいつからでも学ぶことはできる、学歴主義的な学校だけが学びの場所や学びの時間ではないという考え方ですよね。とても素敵な言葉だと思います。でも僕は、若いときに勉強しておかないと、三〇、四〇歳からじゃだめ、手遅れだと思っています。

    ●交通事故ビデオと最新学習歴主義

    芦田 「最新学習歴主義」の最大の問題として僕はいつも、運転免許更新の時に見せられる、あのドギツい交通事故ビデオを例に挙げます。血だらけになって、交通遺児が暗い顔して、家族中沈鬱な画面が流れるわけです。さすがに暴走族ふうの若者たちもそのビデオには見入っている。専門学校の実習授業やダメな大学のアクティブ・ラーニングみたいに。

    あの時だけは、「最新学習歴」的に「もう二度とスピード違反はしないでおこう、明日からはもう絶対一〇〇キロ以上出さないぞ」って思いますけど、三日程したら忘れますよね(笑)。この先生との座談も同じですよね。われわれは今日の参加者の皆さんにとっては、交通事故ビデオみたいなものなんですよ。なんだこのおっさんたち、みたいな(笑)。

    だから、学校教育と生涯学習(本間先生の言うLearnology)との違いは、長い時間をかけて教育しないと身に付かないものを身につけさせること(学校教育)とそうでないこと(生涯学習)との違いです。僕が二〇歳と言うのは、そういう経験を若い時にやれているかどうかという意味です。逆にそんな「長い」時間なんて社会人には取れない。「長い」時間も教育のチャンスは学校教育にしか存在していないわけです。

    いまの学校教育は偏差値の低い人たちに対して「アクティブ」な教育、つまり交通事故ビデオみたいなものでしか勉強できない教育をやっているわけですよね。インターンシップの実践性もその文脈でのことに過ぎない。たしかに刺激の強いビデオを見せると、勉強嫌いな子も寝ないで見ている。しかしその本来の実践性は身につかないわけです。「事故防止したければ事故ビデオを見せる。それが一番!」なんて言う人たちは、〈教育〉からもっとも遠い人たちなのです。

    特にツイッターなんて、いつも交通事故ビデオみたいなものじゃないですか。「タイムライン」は短い時間の出来事、短い時間の刺激で、役に立ったとか、この人いいこと言っているとか、アホかとか、そういう連続でしょ。交通事故ビデオ、あるいはツイッターのタイムラインなんて、絶えず最新学習歴を更新し続けているわけです。目は覚めるが、身には付かない。アクティブラーニングの「アクティブ」も同じ程度のものです。

    ●勉強というのは嫌なことを勉強するときこそ勉強

    芦田 学校教育はその対極で、閉じ込めて、外に出づらい雰囲気で拘束している。e-Learningは「ねむたい」と思ったら止められるから。学校では教壇がちょっと上にあって、講堂の権威があって、式典までもあるから、ちょっとした不良でも静かにしなきゃいけないと思うような仕掛けになっている(これくらいでは最近はなかなか通用しなくなってきていますが)。

    「やりたいことをやっている」っていうのは、動物が腹へったら飯食うのと同じで、勉強っていうのは嫌なことを勉強するとき勉強なんですよ。どんな暴走族でも交通事故のビデオ見せられると、何分かは「やっぱ俺はもうスピード出すの止めよう」と思うんだけど、もうすぐに忘れてるから(笑)。刺激が高いほど忘れるのも早い。刺激でしか動けない動物はだから〈学習〉から遠いわけです。

    だから学校教育は、そういうことを長い時間にわたって「理解しましたか、理解していないと次に行けませんよ」と、一つの体系(長い時間)の中で繰り返しらせん状にやっていきます。これは、人間にしかない「時間」です。これだけ「退屈」な「時間」をかけて、じっくり教育していって、手順を踏まないとわからないことを教え続けていって、一人の主体(人格)を形成していくわけですから。教育基本法第一条にも「教育は、人格の完成を目指し...」と書いてある。教育が前提するのは〈人格〉そのものではなくて未完成の人格なのです。

    ここを通過しない人たちの人生は悲惨ですよ。人格が完成しないまま学校を通過するのですから。だから四〇歳とかで「勉強好き」な人がいるじゃないですか、会社の中で絶対嫌がられているでしょう。課長とかでも、週末に読んだ本を「お前、これはいい本だぞ、ちょっと読んでこい」とか言って、バカだよね(笑)。社会人の本来のテキストは、社会や現場そのものなのだから。

    【「自由な学びの主体」のウソ】

    ●ハイパーテキスト論は「格差社会」を見ていない

    芦田 「最新学習歴」主義について、もう一つ言えることは、テッドネルソンが1960年前後で提唱したハイパーテキスト論です。これはあきらかに本間先生の思想に近い。要するに学校教育体系に対する否定です。学校教育体系とは、一言で言えば、初級・中級・上級主義のことです。平等に扱われるクラス授業において、行儀よく教科書や先生(指導者)に付きながら階段を一歩ずつ上っていく教育です。

    でも人が100人いれば100の初級・中級・上級がある。登る山の頂上が仮に同じであるにしても、時間も含めて登り方は人数分100あるはず。それを強制して、時間割と教場と教科書に閉じ込める必要は全くない、というのがテッドネルソンの考え方でした。

    「ハイパーテキスト」論の「ハイパー」とは「スーパー」の上を意味するのではなく ― そういう解説を加える先生がよくいますが ― 、「常軌を逸した」「病的な」という意味です。つまり学校教育体系のようにお行儀のよい順序で学ばない、ということを意味しています。一冊の本を読むときだって、お行儀よく最初から読む人なんてそんなに多くはない。いつでもどこからでも関心の赴くまま突き進んでいく、そこにできる道がひとそれぞれの学びの方法だし学びの全体だと。

    これはまさに1990年代に登場するインターネット時代の(革命的なブラウザ「Mosaic」以降の)「ハイパー」リンク思想です。われわれのネットの学びはそれと意識しなくても、「いつでもどこからでも関心の赴くまま突き進んでいく、そこにできる道が人それぞれの学びの方法だし学びの全体である」という思想を体現しているわけです。

    これはもっともそうな考え方に見えます。しかしこういった自由な学びは、目的動機に強い「学びの主体」を要求します。なぜか。「いつでもどこでもどこからでも」という学びは、「いつでもどこでもどこからでも」他の誘惑を招き寄せる自由だからです。教室に集団的に閉じ込められているときには、少しくらい他の誘惑があっても我慢することができますが、ハイパーリンクは自由な分、集中する力が拡散しやすい環境にあります。だから学校教育的なボリュームを「ハイパーテキスト」論的に学べる人は、すでに〈学びの主体〉 ― 教育基本法で言うところの「人格の完成」 ― を形成し終えている人か、学ぶ目的について外面的に強く強制されている人以外には存在しないのです。学校(=学歴)不要論者ホリエモンにしても、茂木健一郎さんにしても、どちらも東大じゃないですか。そりゃ、「やる気があれば学歴なんて関係ないよ」と言うに決まっています。この人たちは、その「やる気」そのものがどこから出てくるのかに全く関心のない平和な、身勝手な人たちなのです。

    その意味でネット時代の自由な学びは、ますますやる気のある人たちばかりがのさばる"格差社会"になっていきます。かれらの「学びの主体」は、大概が文化的な(●●●●)家族に支えられ、保護されて、学校教育以前に成立していますが、大概の家庭(特に昨今の家庭)の文化度は低いままなのですから、その文化的な担保としての学校教育の強制性はすごく大きな意味を持っているのです。だから、今の時代は、「いつでもどこでもどこからでも学べる」と宣言すればするほど、ますます、いつまで経っても、どこにいても、入門勉強さえ、やらない人が増える。その上、家庭の経済的文化的格差がそのまま教育格差に連動する度合いも高まってきているわけです。経済格差を相対的に縮小したりシャッフルしたりする社会装置の鍵を握っていたメリトクラシーが崩壊しつつあるのですから経済格差が拡大するのは当たり前です。

    ●「バカな」子どもも消費される時代

    芦田 こういった平和な「学びの主体」論が、強化されていくのはまさに中曽根臨教審(1980年代後半)の「学校教育は生涯学習の一部」という提案以降です。「学校教育は生涯学習の一部」となると人間は生まれて死ぬまで「学びの主体」、つまり学校教育以前の学びを認めるわけですから、当然「家庭教育の重視」と一体化します。現に「学校教育は生涯学習の一部」論とともに、中曽根臨教審は「家庭教育の重視」を持ち出してくるわけです。そんな、学びの主体を文化的に補完する家庭は、臨教審以後=90年代以降急激に解体していきます。

    社会的には、子どもを消費者(大人)として扱う高度消費社会、ポケベル→携帯電話→i-modeの誕生→mixi(Facebook)→Twitter→LINEなど子どもが子どものままで社会化するネット社会の隆盛が〈家族〉をスルーすることになり、できない子どもの悲惨が見えづらくなってきています。今では「天然」を売りにするタレントまでも人気がある。この時代では「バカな」子どもも消費(●●)されるわけです。

    本間先生は一方で「できない子ども」たちの教育を現実的に配慮するかに見えて、一方で「いつでもどこでもどこからでも」学べる時代になっていると言われますが、後者を謳歌できる人たちというのは、文化的、学歴的には「中の上」「上の下」以上の人たちなわけです。「生涯学習」論や「最新学習歴」主義というのは、できない子どもたちにはかえって残酷なテーゼなのです。その点でも、僕は「最新学習歴」主義に反対です。

    ここは本間さんと僕の立ち位置が、はっきり分かれてくるところでしょうね。本間さんの「最新学習歴」主義Learnologyは生涯学習の立場に立っていて、僕はやっぱり学校教育の特殊性の意義をすごく高く評価していますから。若いときにしかできない勉強を若いときにきちんとさせるってことがなければ、Learnologyは上手く機能しない、というのが私の立場です。

    つまり〈キャリア教育〉もそうですけど、学校教育のときからLearnologyの視点で、最新学習歴みたいな発想を持ち込んでくると、せっかく育てなきゃいけない若いときの学びの主体、主体形成がかなり阻害されていく。私はそこの弊害をすごく心配しているんです。そろそろ時間になったようです。あっ、とっくに時間を超えていました(笑)。後は参加者からの質問でお互い補いましょう(笑)。


    質問編(会場の参加者からの主な質問)

    【キャリア教育の功罪】

    ●なぜキャリア教育は「小手先」と呼ばれるのか

    質問者1 芦田先生は「できない子」に対しても、社会に出ても摩耗しないコアを形成していくべきというお考えですよね。それに対して本間先生は、キャリア教育で土台作りをして、ある意味小手先だけをおこなって、社会に出すような感じを受けました。そういうキャリア教育で社会に入った場合に、やっぱり摩耗してしまうんじゃないかなって思ったんですけども、本間先生はどのようにお考えでしょうか。

    本間 だいぶ芦田教に染まってらっしゃる(笑)。現状で「キャリア教育」と題されて、小手先だけに終わっているプログラムがあり、そういう講師がいるのは、残念ながら否定しがたいことだと思うのです。しかし社会に出た時に、自分が学んでいることがどんなふうに役に立つのかを意識すると、学びの染み込み方が全然違ってきます。

    例えば、三角関数を学ぶときに、「とにかくやれ」「試験に出るから」というのと、「GPSで、何度何分何秒ってわかるじゃない、これ三角関数のアプリケーションなんだよね」、あるいは、大工さんになりたい人が、構造計算の基礎の基礎、「この三角関数できないと、木造の住宅一個立たないよね」というのがわかった上で三角関数教わるのとでは、やっぱり全然違ってきます。

    それは決して小手先のことではなくて、学びというものがその人のなかにしっかり染み込んでいくのかどうかに関わる根幹のことだと思うんですね。「あ、キャリア教育、小手先!」っていう受け取り方の方が、非常に小手先的な学び方だなと僕は思いました(笑)。あら皮肉っぽい(笑)。

    芦田 うーん。いま本間先生の言われたとおりで、三角関数の教え方のことですけれども、問題の核心は、それを誰が(●●)教えるのかということです。それは、三角関数の専門家の課題であって、社会接続教育の課題ではない、というのが私の主張です。金沢工大の黒田壽二総長も、よく言われていますが、キャリア教育というのは、専門科目の中で教えないと意味がないということです。どんな専門科目もそれ自体の社会性を有しており、キャリア教育というのは「キャリアデザイン」という科目や「キャリア教育」の先生が外面的に教育するとかえって中途半端なものになり、成果を生むことが難しいのではないか。彼らの授業が途中で必ず退屈になるのはすべて「事例」教育に終わるからです。

    普通は実体があってその事例があるのですが、実体の把握が薄いために(何の専門家でもないために)、事例の豊富さでごまかしているわけです。最後は自慢話で終わる。だからこの種の先生たちの授業は、一ヶ月も経てば誰も聞かなくなる。だから、大学の先生は社会性が弱いから、キャリア教育の先生が社会性を大学に持ち込むと言ってもそう簡単にいかないのです。

    ●「二〇社受けて全部落ちた学生」との向き合い方

    質問者2 芦田先生が「うさんくさいキャリアカウンセラー」ということをおっしゃっておりますが、私はキャリアコンサルタントをやっております。正式名称は国家資格では「キャリアコンサルタント」というんです。「カウンセラー」というのは、蔑称なんですね。
    芦田 まあここでは同じ......(笑)。

    質問者2 そこで二つ質問なんですが、一つ目は例えば、二〇社を受けて全部滑っちゃった学生が、芦田先生のところに相談に来たとしたらどうしますか。二つ目の質問は、教師との人間関係がやはりまずくて、生徒が学校を辞めちゃった、というケースがあったときに、芦田先生はどんな対応をされるのかを、伺いたいなと思います。

    芦田 「もういっぺん、学校で一から勉強し直せ」「社会に出るな」って言いますね。

    質問者2 それは、キャリアコンサルタントとしては違うんですよ。われわれは二〇社受けた学生に対して、「いやー、よく頑張ったな」と、その努力を認めてやるんですよ。やっぱりわれわれは自信を持たせること、新たな可能性を見つけることが仕事です。それがこの「うさんくさいキャリアコンサルタント」で、芦田先生がおっしゃっている「キャリアカウンセラー」の仕事とは、ちょっと違うんですよ。

    芦田 それをやるから、「キャリアコンサルタント」はだめなんですよ。

    質問者2 いや、そうですか?

    芦田 その学生に「だめ」だって言ってやらないと。「もしあなたみたいな学生を入れてくれる企業があったら、その企業の方がおかしい」って言ってやらないと。だから、まずは落ちたことは正しいことだと思わせるべきなんです。

    質問者2 いや、落ちたことを正しいんじゃなくて、チャレンジしたことを褒めてやるわけです。

    芦田 そんな無能なのにチャレンジすること自体がおかしいから、ちゃんと勉強させなきゃだめなんです。あと一年、二年留年してもいいから、どこかの先生にしがみついて勉強させるんです。いま三流の大学行っていても、一年間くらい真剣に勉強すれば、早稲田や慶応の連中がストックで持っているくらいのことはすぐ身に付く程度のライバルしかいませんから。一年だけでもしっかり勉強させればいいんです。

    質問者2 先生のおっしゃることはその通りだと思うんです。ただ、最初に相談に来た学生に対して、やっぱり自信を持たせて、いま先生がおっしゃったようなチャレンジさせる気持ちを持たせ続けることがわれわれの職務なんです。

    芦田 いやいや、だって二〇社落ちた学生に何の自信を持たせるんですか?

    質問者2 いや、「チャレンジ」したということについてです。

    芦田 そんな、チャレンジしたってことに自信持たせたってしょうがないじゃないですか。もともと頼りにしてはいけないものを信じてしまってチャレンジしたんだから、チャレンジしたこと自体が勘違いだと思わせないとだめですよ。つまり世の中をなめているわけですよね。

    質問者2 もちろん、そういう面もないとは言えないともわかりません。

    芦田 それが全てですよ。

    質問者2 ただ学生にとっては、二〇社チャレンジしたということは評価してやらないとだめです。

    芦田 それはちゃんと勉強させるための筋道の一つとして、とりあえず褒めておかないと泣いちゃうぞ、みたいなレベルの話しであれば、それは全然否定しませんよ。だから、その学生にきちんとしたストックをつけさせるプロセスの中で、ある種の説得のノウハウとして使うことはいくらでもやります。そんなの当たり前。あなたがたはその種の心理主義的な慰労にすぎないことを、学生指導というものと勘違いしている。

    でも、この場合の指導の基本は、「あなた、一体何ができるの?」っていう話から引っ張っていかないと、適切な会社選びもできないじゃないですか。まずは「自分は四年間何やってきたんだろう」って反省させないとだめですよ。

    キャリアカウンセラーにしても、コンサルタントにしても、この種の人たちを学校に入れたらダメなのは、そこを傷のなめ合いみたいな話しにして、とりあえず処方箋で社会に出しちゃうから、勤めてもすぐ辞めちゃうような若者が増えて、離職率も高い、今の倍近くの失業率になっているんですよ。逆に言えば大学内の就職センターがうまく機能している大学の、カリキュラム改革(教学改革)が全く進まないのと同じ事態です。
    だから、あなた方の仕事(の仕方)がいけない。そういうやつに二一社目見つけさせてもだめなんだから、学校から外に出してはいけない。これが結論です。

    質問者2 いや、私らは二一社目にチャレンジしろ、と言っているわけです。

    芦田 だからそうすると、離職率が高まっていくんですよ。それはもう社会的な犯罪です(笑)

    本間 二〇個エントリーシートを書いて、落ちた子の状況にもやっぱりよりますね。勉強が不十分で実力がついてなかったのか、勉強は得意でちゃんとやってきたんだけれども、面接のときのアピール力が弱かったのか、そもそも会社選びの仕方が悪いのか。そこはやっぱり一概に言えないところだと思いますね。やっぱり社会をなめているっていうことだったら、キャリアコンサルタントの方でも「お前もう一年勉強した方がいいよ」って言わざるをえない時もあると思います。

    でも短期的に見て、就職実績を上げることだけが至上目的になってしまうと、もったいないですよね。確かに二〇社受けて全部だめなのは問題だけど、キャリアコンサルタントがいたからこそ希望の会社に入れました、ありがとうございます、っていう子も実際いるわけだから、全部否定しないほうがいいな(笑)

    ●担任主義や人間主義では解決できない問題がある

    芦田 それとあなた(質問者2)の二つ目の質問について。教師との人間関係がまずくなって退学する子どもがいるという問題ですが、それは、「人間関係」の問題ではありません。あなたが自分の仕事を確保したいから、「人間関係」の問題にしたいだけです(笑)。

    僕の経験では、退学要因の実体はほとんど学業不振です。それを「家庭の(経済的な)事情」「進路変更」「持病の悪化(精神的な不安定)」などと言っているだけです。ひどいのになると誰も彼も統合失調症扱いする。スターリン時代のソ連みたいに(笑)。

    だって、「授業がわからない」なんて、担任や教務部長に正直に話したら、必ず「どこがわからないの?」なんて言われてなかなかやめさせてもらえない(笑)。

    僕も昔、ほんとの理由を聞くために「必ずやめさせてあげるから、この学校つまんない、と思った理由聞かせてよ」と聞いたことがあります。そしたら、「建築の勉強したいのに、入学した途端にPC(CAD)の授業やらされて、しかも周りの同級生はキーボード操作やマウス操作がすいすいできるのに、自分は全然そのスピードに付いていけない。自分は向いていないなぁと思いました」などと言い始めたのです。

    それで、そのクラスの小テストの点数を見てみたら、その学生はPCの授業を始めた5月から小テストの点数がやはり急激に落ちていることがわかりました。僕が面接したのは夏休み明けの9月でしたから、結局原因は授業についていけていないことを放置したことが原因です。学生が悲鳴を上げているのに(普段の小テストにまでその結果が出ているのに)、対応できていない。クラスの中での人間関係というのは、対教員関係であれ、対同級生(クラスメート)関係であれ、教員(=授業)への求心性が崩れているときに前面化するだけのことです。わかる授業ができてない、啓発する授業ができない教員の「やめるなよ」「仲良くしろよ」というアドバイスをどうやって聞けばいいのですか? そんなこと無理です。自分の仕事(自分が一番責任の持てる仕事)を棚に上げているだけなのだから。できない子どもたちほどそういうことに敏感です。

    だからキャリアカウンセラーや心理相談室の人間主義的な志向は、その種の問題を覆い隠すように機能します。営業力の高いメーカーが人間主義に頼って、本来提供するべき製品開発の更新に遅れがちになるのと同じ事態です。

     出席率を上げるのも担任主義では上がっても ― つまり超優秀な担任であっても ― 九〇%~九五%前後に留まりがちです。それに担任主義では、九五%の出席率でも、実力は全く身についていない場合が多い。仲良しクラスに過ぎないわけです。ここから先九八%以上を目指そうとすると、中身を伴う改革が必要になる。

    僕の経験では、学生アンケート(=心理主義アンケート)を取ると学内で一番人気のない(好かれていない)先生のクラスであっても、出席率はいつも一〇〇%に近いというクラスがありました。クラスの学生に「なんで?」と聞くと、「厳しいけど高度な実力が身に付くし、役に立つテキストが豊富だから」というものでした。

    人間的には嫌いだけど(笑)、授業はいい、という評価です。それも偏差値四〇前後のクラスの学生たちの評価です。学校の授業評価はクラスを人間主義的にまとめることよりも、まずは何を学ばせるか、学ばせているのかが中核でないと意味がありません。そんなことは偏差値四〇の学生でも感じ取れるのです。

    担任主義の大学や専門学校が勘違いしているのは、この点です。〈担任〉もまた(キャリアコンサルタントや心理相談室のように)人間主義的にしか学生に関われない。それを〈担任〉と言うのだから。授業改善を自他に指示する担任なんて聞いたことがありません。そもそも授業改善以上に、人間(人格やキャラクター)を改善する方がはるかに難しいし、学校は宗教学校ではないのだから。

    ●ホリエモンだって「監獄」に入ったら一〇〇〇冊本を読めた

    質問者3 僕は長い時間をかけた学習に関しては、学校だけでなくてもできると思います。ただ、アウトプットを禁じることによって学習が効率良く行われるという意味では、芦田さんの意見に賛成です。

    芦田 それは本間先生のe-Learning論とかになるんだけれど、長い時間の学習を、どこでもできるっていう立場に立つとしたら、(先ほども言ったように)もう修行僧みたいな主体を形成するしかない。つまり、あらゆる誘惑に打ち勝って、横で綺麗な女の人が裸になっていても、見向きもせずにパソコンに向かってe-Learningアプリケーションにひたすら集中するってこと? 最近の学生は美しい女の人が隣にいたら、飛びつかないの?(笑)

    質問者3 飛びつきますよ。

    芦田 人間は(人間も動物である限りは)飛びつくんだよ。だから教室だとかに閉じ込めるんです、学校っていうのは監獄なんですよ。だってホリエモンでさえ、監獄にぶち込まれたら千冊読めたんだよ(笑)。閉じ込めて、「退屈」だから本でも読んでみようかという状態にさせて、ホリエモンなんて痩せただけじゃなくて、思考も少しはシャープになったよ。ノウハウ本だって千冊でも読めば、少しは頭良くなるよ。彼は刑務所に二年半くらいいたんでしょ、学校教育はもっと長い(笑)。

    質問者3 政治犯が牢獄の中でずっと勉強していたという話しは聞いたことがあります。

    芦田 それはすごく大事な話しで、学校教育は懲役十何年じゃないですか(笑)。ほぼ殺人罪に近い拘束です。これは別にメタファーでも何でもなく、学校もまた監獄だから「校門」と「塀」とがあるんだよ。最近は廊下側が透明になっている小学校があるらしいけど、とんでもない話しで、ガチガチに閉じ込めるべきなんだよ。

    ひどいこと言っているようだけで、こういった生徒・学生に対する平等な、強制的拘束性が、家庭の文化格差(親の学歴や生まれ落ちた地域の文化格差などと強い相関を持っている文化格差)を相対的に解消する契機になっているわけで、この強制性を抜きにして、自由な学びの「多様な」あり方を求めると、その種の多様性は、かならず家庭(両親)の階層性を再生産するだけです。

    「多様性」は子どもの多様性ではなくて、家庭や地域の多様性に過ぎない。学校教育以前の、自由で、多様で、個性的な学びの主体なんてものがあるのだとしたら、それは子どもの非主体的な未熟を、家庭が補っているからにすぎないからです。しかし、学校教育におけるメリトクラシーの本質は、階層格差を勉強格差でシャッフルすることにあったわけです。

    多様性を学校教育に持ち込むと、家族依存の教育体制が前面化します。これは経済格差(授業料の家庭負担の増大も含めて)が偏差値格差に大きく依存しつつある今、ますます階層格差を拡大させる方向でしかない。今こそ、学校教育の強制性を強化すべきです。

    質問者3 さきほど、勉強するのは三〇代じゃもう遅いと、おっしゃってましたが。

    芦田 だって、社会人になったら、何年間にもわたる「拘束」「退屈」状態に置かれることなどないじゃないですか。忙しくなるばかりです。警察に拘束されるか、致命的な重い病気を患うことくらいしか擬似学校状態をつくることは不可能です。ホリエモンもそんな状態に追い込まれて、あれだけの読者を獲得できるようなことを「言える」ようになるまでのストックを形成できた。

    本間 だから、さっき芦田先生は「手遅れ」だって言ったけれども、犯罪を犯して二年半くらい監獄に入れば、今からでも学び直せるわけですね。

    芦田 そうそう、だからみんな監獄に入ればいいんだよ。あるいは、監獄みたいな学校を作ればいい(笑)。

    【教育のグローバル化とは何か】

    ●グローバル化は高卒の労働市場を消滅させた

    質問者4 「グローバル化」っていう言葉が最近よく言われていて、大学の方でも色々と国際化って言っていますけれども、そういった「グローバル化」「グローバル人材」の育成については、大学の役割は何なのでしょうか?

    芦田 さきほど本間さんも言われていましたように、グローバル人材の問題は教育側からすると、グローバル化によって高卒の労働市場が消えたことです。つまり転移可能なジョブ職、製造業だとか、あるいはIT、女性労働、非正規雇用によって肩代わりができる部分、これらが日本の国内から全部消えちゃったんだよね。少子化一八才人口がこの二〇年間で四割くらい減少したことに較べて、一八才高卒の求人件数は、九分の一と、比べものにならないくらいに減少した。だから、高卒だとか短大だとか専門学校卒の人たちの就職場所がない。しかも、専門学校卒の就職状況は好•不況と関係なく低下し続けている。

    いま全国平均では、専門学校の就職率の方が大学よりも低いんですね。これは教育学の小杉礼子なんかが言っていますけど、大学の就職率は好•不況の波と相関しているんだけど、専門学校や一部専門学校的な短大の就職率は好•不況と関係なく落ち続けてきている。いま大学と較べると(就職希望者比で)平均で二〇%くらい違うのかな。

    特に、卒業年次秋口の就職率などは、大学では七〇%弱くらいある就職率が専門学校では五〇%弱あるかないかくらいの就職率になっています(文科省と厚労省の合同調査)。短大ではもっとひどくて三〇%台。専門学校や短大就職率が年次の最後に追いつく就職先というのはほとんど離職予備軍の就職先でしかない。そもそも来年度の事業計画がその前年の秋口になっても定まらない企業や事業所が(一般的に言って)いい就職先であるはずがない。

    なんでこんなことになるのか、その理由は、二年間のジョブスキル教育くらいで通用する市場が、国内で完全に消えてしまったからです。あるいはそこは外国人市場になっている。

    だからグローバル化対応というのは、英語の勉強の問題じゃなくて、新卒の状態で非正規雇用に打ち勝てるような人材を作れるか。つまり有期雇用の連中を雇うよりは、しっかり勉強してきた新卒を採った方が得だと思わせるような職業教育、人材育成をできるかどうかということに関わっています。一言で言うと、この意味でこその〈高度〉職業人の育成が、学校教育体系の中でビルトインされていく必要があるのです。

    ●アジア全体の教育偏差値で、日本はどこに位置するか

    芦田 グローバル化対応の考え方では、日本の若者をアジア全体の若者のリーダー、センターにしていくくらいの気持ちがないとこの苦境を乗り切れない。つまり、偏差値四〇の人は、日本では部長になれないけど、中国だったら部長になれるかもわからない。インドネシアだったら主任になれるかもわかんない、みたいなところで考えていくしかない。アジア全体の労働市場の中でなら、日本の高いところから低いところまでが、優位な人材だということね(この根拠については後でまた触れます)。

    アジア全体の労働センター、若者の労働センターとして日本が主導権を握っていくなら、やっぱり新卒における高度な超一級の職業教育体系から、低位のところまであったとして、その低位なところも、中国へ行けば課長くらいにはなれるように全体を底上げするべきです。偏差値なんて国内でしか通用しないって言う人もいるけれども、アジア全体の労働偏差値と考えればいいじゃないですか。僕の構想では、超一流の高度職業教育がないとだめなんですよ。その時に日本の色んな技術力だとか、教育力っていうのがどう生かされるかの問題になるわけです。

    本間 僕は悲観論じゃないけども、大変だなと思っています。大学経営的にグローバル化を見ると、やっぱり子どもの数が減っていて、留学生を入れないといけない。その時に、これまでの遊んでいたような大学生が、学費のもとをとろうと思って来る学習意欲の高いアジアからの留学生に接して、「やばい」っていうふうに背筋を伸ばすことは、良いことだと思うのですよ。

    実際に仕事に就く場合でも、東大、京大、早稲田が日本のトップだと思ってたら、気がついたらシンガポールにインシアード(INSEAD)が来ていたとか、アジアにイェール大学が進出していて、「そっちの方が国際的な偏差値高いじゃん、日本は大学もガラパゴスになっていたのね」ということにならないように、舵をきらないといけないなとすごく思っています。

    そのためには、ジェネラル・エデュケーションとリベラル・アーツをとことんやる大学があってもいいし、秋田の国際教養大学みたいに、もっと英語をとことんやる大学がもう二つ三つあってもいいなと思うし、バリエーションがすごく大事でしょう。文科省が旗をふったら皆そっち向いちゃうような、それこそ自立的に考えてない大学経営者があまりにも多すぎるなって、僕は危機感の方をむしろ強く持っています。

    ●「消費偏差値」の高さを教育の基盤に据えることについて

    芦田 いまの本間先生のお答えと、少し関連しているかどうかわかりませんけど、一点、その点については意見があります。

    実は日本の大学は、東大も早稲田も慶応も東北大も三流で、世界規準で言うとものすごい後ろの方だ、という指摘はもうずっとされています。僕はアジアを見下すように言ったけど、むしろアジアの大学の方が遥かにグローバル化していて、レベルも高い、っていう議論はよくあるんですね。それはそれとしてありうる話だとは思うけど、実は日本にはすごく大きな資産があって、僕は「消費偏差値」っていう言い方をしています。

    日本の若者は大学全入という意味で、学力的な偏差値は低いのかもわからないけれども、小さい時からすごく高度な消費社会を生きているので、商品に対する批評力は、たぶん世界のどの国の人たちよりも高いと思うんです。僕なんかファミレスの店員にまで喧嘩を売っているわけだからね(笑)。あるいは駅の売り子にまで、今の対応おかしいんじゃないか、って細かいことにケチをつけている。そういう感じは皆持っていて、サービスっていうのはいかにあるべきかとか、あるいはゲームソフトの完成度にしても、どれくらいのものを要求するのかとか。よく谷本真由美さん(ツイッター上の有名アカウント @May_Roma)が、「日本ほど誤りに厳しい民族、国民はいない」っていう言い方しますよね。これは、偏差値の高い•低いと関係なく、偏差値的にはどうしようもない人たちも、そういうことについては偉そうに、厳しく言う。実はこれは、日本が持っている非常に大きな国力なんですよね。

    その消費偏差値の高さを逆手に取って、カウンセリングやコンサルティングも含めて、日本の若者をきちんとした社会人にしていく色んな道筋はあるんだけど、その価値を教育側が全然気付いてない。だから、大学側のレベルが低いということはあるけれど、消費偏差値をきちんと大事にして、それを上手く教育体系に取り込んでくるような職業教育体系は絶対できると思うんですね。

    楽天の幹部が、自分たちはアジアの優秀な学生を新卒学生枠の三〇%も採っていて、彼らは頭がいいから何でも言った通りにやるんだけど、そもそもなんでこんなもの(物の生産であれ、サービスの提供であれ)をやらなきゃいけないのかということを説明するのがすごく大変だ、と言っていました。日本の若者はバカでもそこだけはわかっているのね。その理由はわかっているんだけども、どうしたらいいかがわかんないところが、学力的な偏差値の問題なんですね。

    消費偏差値と学力偏差値のどちらからアプローチするかっていう問題はそんな簡単じゃないって、楽天みたいなちょっとずつグローバル化しつつある企業の人たちも思っている。だからこの価値は、企業の人たちはわかっているんだけども、肝心の教育側は、「多様化」したバカ学生たちをいまはもう憎んでさえいるね。それがバカ学生の掃きだめ構想でしかない新大学論の限界です。

    大学の先生たちは、なんで俺らがこんなバカな人たちを教えなきゃいけないんだ、経営側は誰でも入れろって言うし、って文句言っています。僕はいつもそういう先生たちに対して、そんなに偏差値低い学生たちを嫌いなら、偏差値の高い大学へと行けばいい、出て行って下さい、って言っているんですけどね。だって、その学生たちからお金貰ってるんだから。

    だから大学の価値という問題と、日本の若者が自然に身につけている消費文化レベルとの関係をちゃんと考えていかないと、国力としての教育の基盤みたいなものはトータルに考えられないんじゃないかと思っています。

    今日はみなさん、長い時間有り難うございました。こんな(私にとっては)貴重な議論をさせていただいた本間先生に感謝して、この会を終わりにしたいと思います(拍手)。
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