Netflix『メシア』。これは内容的に超大作というか問題作というか、最初みたとき衝撃を受けました(最近三回目をみています)。
イエスの誕生か、それともキリストの誕生か(そんな遠藤周作の名著がありましたが)、どうして、イエスがキリストになったのか(つまり哲学的には超越論的、存在論的問題なのですが)をまともに扱った超大作です。
かつてブルトマンらが〝史的イエス〟問題として扱った問題。この作品のテーマは直接キリスト教ではないのですが。それに、ミシェル・モナハンが最高に素敵です。
この作品のシーズン2は、もろもろの問題で出ないのではないか。切望しているが。
どんな〈信仰〉にも、ペテロやパウロみたいな人物が必要になるということ、かな。この作品の意味は。
〈信仰〉の〝根拠reason〟は、後から〈教祖〉と言われる人物をいくら史的に検証しても出てきはしない。周りの人間が後から作ったものだ。教祖の〝能力〟は、周りの人間の能力に他ならない。
キリスト教神学的には、〈信仰〉は、〈復活〉とほぼ同義語だが、復活はすなわち人間の〈死〉の解釈の一つだ。おのれの死に向かう態度の通俗板が〈信仰〉だとも言える。
太宰治は、イエスの本質を、裏切り者とされるユダの存在に見たが、それも同じ事だと思う。「きれい事ばかり言いやがって」とユダはいつも思っていたのだ。そのきれいごとを現実的に支えているのは私(ユダ)だと。
ペテロやパウロより、太宰にとってはユダの方がほんとの弟子だったのだ。〈女〉を幸せにできなかった太宰らしいユダ論だった。
