認知行動療法の考え方について ― 『代替行動の臨床実践ガイド』(北大路書房、2022)を読む。
2026年2月10日 08:13
これからの大学
,映画・ドラマ・書籍批評
わが大学の総合心理学部講師・横光健吾先生(専門は依存症と認知行動療法、公認心理師、臨床心理士)から献本されました(彼はこの本の編著者です)。レビューを書かないわけにはいかないね、と言ってしまったので(もう二週間も経ってました)、土曜日の今日とりあえず書いてみました。横光先生、遅くなって済みません。

認知行動療法の原理を簡単に説明すると ― と言っても私はこの横光先生の記事(第四章「ギャンブル行動 ― 刺激を遠ざけ、感情を豊かにしていく」)で認知行動療法の実際を知っただけなのだが ― 、ギャンブルなどの依存症を軽減するために、ギャンブルそのものを回避するというよりは、そのギャンブルを誘発する日常生活の諸々の契機を回避することが重要だということだ。
〝強い〟意志によって依存対象を直接的に回避することが出来るくらいなら、その人は依存症にはならない。その手前、手前で生じている、ギャンブルを誘発する契機を減らすこと、つまり〝強い〟意志を介在させなくても回避できることを重ねていけば、ギャンブルを誘発する原因からの距離を保つことになり、結果的に依存症の諸症状を軽減させることができるのではないか、これが認知行動療法の考え方。
精神分析のように〈内因〉を探るのではなくて、〈外因〉 ― まさに行動主義的なbehavior ― を探る仕方で〝行動(behavior)〟を制御するのが認知行動療法である。
※話が脱線するのでこれ以上深入りしたくはないが、この療法の前提する人間観はパブロフの犬的なきわめて貧弱なものである(笑) だから、その分効果も限定的だ。人が〈変わる〉ということは何を意味するのかなどまだ誰も答えを見出してはいないのだから。
具体的には、「ギャンブルにつながる可能性」としての「『財布を見る』という生活スタイルを変えるために」、弁当は買わずに持参するとか、支払いは電子マネーにするとかが「火消し」には役立つ(場合がある)らしい。この「火消し」の仕方を「刺激統制」と言う。またその電子マネーも上限額を低く設定するとか、パケット通信の上限も低く設定して、「行動コスト」を高く付くようにすれば、面倒くささが先に立って、「火消し」には役立つかもしれない。
このように認知行動療法の〝原理〟はとても単純で理解しやすいものだが、原理自体に矛盾もある。制御しやすい手前、手前の〝原因〟が見当たれば見当たるほど、それは他の目的に従属する要素も高くなって、生きること自体の刺激統制や行動コストに抵触し始めるということだ。統制コストが安く済めば済むほど、生活の全域が高い行動コストに見舞われることになる。たぶんこのあたりは、支援の実際の中ではバランスの問題だと言いながら相対化されているのだろう。
※後は実例を集めればいいだけ、というような原理の単純性に、若い研究者の課題を収斂させるのは、私の趣味ではない。実例主義は、自分の原理を疑わないところが最大の問題。授業でも「たとえば」「たとえば」と言い続けて、原理自体は全く進化しない。退屈そのものだ。鶴見俊輔が柄谷行人の批評スタイルの問題を喝破したように。
もう一つの問題は、そのバランスとしての手前の〝原因〟を見出すのは、まるで精神分析的な内因を探すかのようなクライエントとの対面テクニックを必要とするだろうということだ。それは生活の中の無意識を探り当てる解釈作業と変わらない。藤山直樹が「thoughtをthinkingできるためにはプロセスが必要なんです」という意味で、認知行動主義もまたフロイト的な「ヒューマンな体験」を避けることは出来ない。
何がギャンブルを誘発する軽い契機なのかという課題は行動主義的な原理の明快さとは違って、一般化は出来ない。軽い契機(ギャンブル契機から遠い契機)が軽ければ軽いほど解釈の度合いは高まるというように、行動療法といっても、一義的な行動(behavior)など存在するはずもない。どんな日常でも〝原因〟になりうるからだ。それが、犬とは違う人間のあり方だ。人間は自分自身を解釈し続けている存在だからだ。
だから、この療法は、「短期的な報酬」に飛びついてはならない。「年単位のスパンで改善」を考える必要がある。「ハーム・リダクション」というのも、長い依存症との付き合いを前提したものだ。
そう言いながらも横光先生は「マインドフルネス」については「すぐには役立ちません」と短兵急に結論を出す。それは刺激統制や行動コスト対処に比べれば「長期的な視点」が必要になるからだと言う。
この時の長い、短いという時間感覚はどうなっているのだろう。「三ヶ月」という記述も記事の中には出てくるが、治る人もいるし治らない人もいるというこの世界の〝治療〟(=「ハーム・リダクション」)の中で、飛び抜けた療法があるわけでもなく ― 私が思うにこの世界の療法は、支援者の技量があまり問われないものが〝飛び抜けた〟療法だと思うが、その点でも、軽い原因をクライエントとの会話の中で解釈し続けていく認知行動療法は決して決定的な療法だとも思えないのだが(横光先生的には精神分析よりも認知行動療法の方が観察者=関与者矛盾が軽減されていると言うのだろうが) ― 、そのフロイトさえも戒めていたように「治療上の名誉心」を捨てることが〝科学的な〟態度なのではないか。
若くして優秀な研究者である横光先生には、ぜひわが学科長の伊藤義徳教授のような幅広い視点(特に歴史的な観点 ― 歴史性のない原理など単なるドグマに過ぎない ― )へと踏み込んで、これからの認知行動療法を極めて頂きたいと思う。なによりもその観点が、学生教育にも役に立つに違いない。今後のわが大学でのご活躍を期待しております。
※追伸1
この本は、「です・ます」調で書かれているのだが ― たぶん、啓蒙主義的、入門的な観点からだろうが ― 、なにか釈然としない。共産党の赤旗もいつ頃からか「です・ます」調になってしまったが、「です・ます」調のダメなところは主張を事実であるかのように表現してしまうところにある。入門的な啓蒙書こそ、「です・ます」調は避けるべきだと思う。初心者こそが、事実と主張との区別ができないからだ。
※追伸2
武田先生(同じくわが大学の若手のホープ)もそうなのだが、最近の若手は形容詞のあと、「です」表現を付ける。「悲しいです」、みたいに。これは、砕けた表現としては使われているが、下手な日本語学校の先生みたいな表現は避けて欲しい。 表示を縮小
