高校生のとき、圧倒的に影響を受けた吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』。前半の〈自己表出〉と〈指示表出〉という概念装置は、誰でも知っていると思うが、私があらーと感心したのは、実はⅣ章以降の〈表現転移論〉。

〈文学体〉(=自己表出)と〈話体〉(=指示表出)という概念を駆使して、近代文学史を見事に描ききったことだった。

太宰治論などは卓越していて、話体の文学体という矛盾の文体が太宰だったのだ。〈批評〉の力を感じた最初の作品が、吉本のこの表現転移論だった。

この間もわが道後キャンパスの心理学者たちと学生の実験レポートの評価について話していて、あなたたちは、いきなり書かせようとするけど、そんなことするまえに、〈批評〉という段階を経させないと、と議論をふっかけた。

書くのは単に知識だけでは書けないと偉そうなことを言う割には、いきなり書かせて添削を重ねて、学生、教員共犯でレポートを完成させる。これでは、学生の自立的なレポート作成能力は評価できない。数々のレポートの類例を低級なものから立派なものまでを見させて、それに評価を加える経験をさせること、これは、知識と書くこととを架橋させるもっとも知的な訓練なわけだ。

まさに、書かせる前の、〈批評〉の段階。これが、大学の実験レポート論や建築の設計製図の実習の中で一番欠けているのです。

吉本のこの表現転移論は、理論と文学史との見事な融合を果たしていて、柄谷行人の処女作『畏怖する人間』もこの吉本の仕事なしには生まれてこなかったように思う。

こういう〈批評〉の空間が大学教養の最大の宝物だったのに、訳のわからない科学主義、実践主義によって、この種の訓練が雲散霧消しつつあるわけだ。悲しいことだ。