カテゴリ「これからの専門学校」の記事一覧

生成AI批判の前提について ― 誰でも間違うようにして、生成AIも間違う。

生成AIの時代になると、その回答が正しいのか、間違っているのか、判断する側の〝能力〟が問われるし、これからの教育の課題もそこが大切、とアホな教育関係者は宣うが、そんなはずがない。...

「観点別評価」と「生涯学習」と中曽根臨教審、あるいは〈主体的な学び〉について(『シラバス論』321~331頁)

国語や英語や数学などの教科教育において、知識点数(だけ)ではなく、意欲、創造性も(共に)評価するという、いわゆる「観点別評価」が始まるのは、他ならぬ1990年代以降(=中曽根臨教審以降)の学校教育の中でのことです。 「観点別評価」を一言で言えば、知識点数は40点しか取れていないのに、20点の意欲点などをそれに付加して、履修判定のための最終「総合」合格点(60点)を出すというものです。こうやって、知識点数評価とは別に人物評価的な「観点」を加えていくと、従来は四〇点で落伍していたものが、人物評価主義的に救済されていきます。もちろん逆に100点の知識点数を有していても、50点マイナスの人物評価を受けて不合格になることがあっても理論的には不思議ではないのですが、事態はそうならず、前者の救済評価のみが1990年代以降蔓延したのです。 「知識のみならず、人物評価も」という議論の本来からすれば、(知識点...

学生は〈顧客〉ではない(『シラバス論』186~188頁)

なぜかと言えば、学校教育では、〈学ぶ主体〉などまだ完成していないのだから。むしろ〈学ぶ主体〉を形成するのが学校教育全体の目的であって ― 教育基本法では「人格の完成」いう言葉があるが、これは第一条「教育の目的」に属している言葉であって、まだ人格として完成していない子どもたちを前提とした言葉である ― 、〈学ぶ主体〉を前提にするのであれば、〈学校教育〉は存在する意味がない。 〈学校教育〉に〈学ぶ主体〉が存在するかのように思えるのは、家族や地域の文化環境(〝裕福な〟環境)のせいであって子どもそのものの力によってではない。学校教育は、家族や地域の文化環境をとりあえずは括弧に入れて、クラスに入れば子どもたちを公平平等に扱うところにある。すべてはこれからというところにしか学校教育の存在意味はない。そこで初めて、次世代を担う子どもたちは親の世代や階層(家族や地域の文化環境)を超えてあらたな階層を形成し...

大学における教育と研究との関係について ― フンボルト理念とセネカのDocendo discimus ― (『シラバス論』194~198頁)

Docendo discimus(ドケンドー・ディスキムス) は、セネカの言葉である(『セネカ哲学全集(第五巻)』倫理書簡集Ⅰ、岩波書店、2005年)。「教えることによって学ぶ(教えながら学ぶ)」という意味だが、これは西川純(上越教育大学)たちのくだらない『学び合い』教育とは何の関係もない。いつでもどこでも最高判断、最高認識が露呈する仕方で学ぶ者に接しなさいということだ。「君は君自身のために学んできたのだから」(同前・21頁)とセネカは教えることの啓蒙主義を退けていたのだから。 学ぶ者の程度を考えることは教える者自身の堕落に他ならない。「程度を考えて」教える教員は大概がその「程度」の教員に成り下がる。「わかりやすく言うと」と言いつづけて教える教員が、いつの間にかわかりやすいことしか考えられなくなることも多々ある。それは啓蒙主義の限界でもある。 一方、留保なく教えることができるときにこそ、〈...

学校教育における職業教育の諸課題(『シラバス論』351~356頁)

※本間正人さん(京都造形大学教授)との、大激論公開対談(学校教育における〈キャリア教育〉とは何か)からの抜萃。 ●二重の差別を受けてきた「職業教育」 芦田 そういった議論を前に進めるために二点指摘したいことがあります。一つは、本間先生はいま偏差値が上の方の子はキャリア教育はなくてもいいかもしれないという前提(僕もその前提を共有していると指摘されながら)でお話になっていますよね。 僕はこの問題の内部には、実は別の問題があると思います。80年代後半の中曽根臨教審、これは下村博文さん(2012年~2015年の文部科学大臣)や安倍さんが全く同じ方針を引き継いでいますが、基本的にキャリア教育や職業教育に対する差別視がある。 つまり、一方にはジェネラル・エデュケーションとリベラル・アーツというこれまでの偏差値型の軸が一本あって、今の日本の教育体系ではこれを「頭がいい」と判断します。そこで、本間さんもお...

カリキュラムの反対語は「講座制」 ― 講座制の歴史について ― (『シラバス論』70~77頁)

カリキュラム教育においては、科目はカリキュラムの〈部品〉に過ぎないが、東大に始まる旧帝大型の講座制(はるか昔、明治20年代以降に始まった)がまだ色濃く残る ― たとえ学校教育法が2007年にやっと改正され〈助教授〉が〈准教授〉になろうとも ― 今日の科目編成においては、シラバスの「詳細化」がカリキュラム開発に貢献することなどまだまだ考えられない状況だ。 天野郁夫によれば、「講座」の名称が登場するのは、明治23年の「大学令案」(文部大臣は第三代芳川顕正)らしい(『大学の誕生』中公新書、2009年)。当初の大学(教育研究組織)は、学部と学科の「二層」だったが、「大学令」以来、学部・学科・講座の「三層」になり、この「講座」に「教授・助教授・助手」が張り付いたのである。今からみれば、これが大学における学部や学科の求心性を殺ぐ教授主義の起源なのだろう。(※4)...

「大学の多様性」と「学生の多様性」と ― 「多様性と標準性の調和」(2008年)から「多様性と柔軟性の確保」へ(2018年) ― (『シラバス論』49~68頁)

「専門」教養とか「一般」教養、あるいは専門教育と一般教育などのありそうでなさそうな区分ももう一度考えるべき時なのかもしれない。四年間全体が教養教育だと言えば言えるし、四年間全体が柔軟な職業教育だとも言えるこの時代に、学部教育(学士課程)のカリキュラムをどう考えるのか、そこにしか〈専門〉と〈一般〉との区別を考える手がかりはない。 佐藤学によれば、大綱化までの日本の大学は、アメリカの大学の教養課程+ヨーロッパの大学の専門課程を足して二で割ったような体裁(アメリカ型四年教養教育の二年縮減型+ヨーロッパ型四年専門教育の二年縮減型)を取っていたが、設置基準の「大綱化」により、「教養教育が軒並み衰退」した。「それほど教養教育の教官が恵まれない状況に置かれてきたということです。予算といい教育の状況といいノルマといい弱い立場に置かれてきた。そのために一挙に崩れた」ということになる(「教養教育と専門家教育の...

先生が「答えを教える」授業はダメな授業なのか(『シラバス論』240~251頁)

(…) 一方、潮木守一は「最近では『わかりやすい授業』とは『勉強しなくてもわかる授業』、『予習しなくてもわかる授業』、『先生が答えを教えてくれる授業』になってきている(…)人間が長年にわたって学問にかけてきた努力と情熱を真っ向から否定している」という「ベテラン高校教師」の言葉を報告している(前掲書『大学再生への具体像(第二版)』)。 しかし、これはためにする批判のような気がする。パワポ論のところでも書いたが(二章五節)、授業という場所はどんなに資料(コマシラバスを含めて)を「詳細」化してもメタ情報 ─ それ「について」語るというように ─ が絶えず発生する場所である。詳細化の度合いは、そのメタ情報の質をどんどん高めてくれる。詳細に書き出した内容(の水準)を踏まえてメタ化が発生するからである。 詳細化すればするほどメタ情報は高度化する。書物、教科書、文献、教材資料、あるいは実習設備など、それ...

学歴主義と最新学習歴主義(Learnology)について(『シラバス論 』371~378頁)

※本間正人さん(京都造形大学教授)との、大激論公開対談(学校教育における〈キャリア教育〉とは何か)からの抜萃。 本間 僕は「学習学Learnology」というのを提唱していて、「最終学歴」という言葉を死語にすることが目標です。ここも、芦田先生とは違うところだと思いますけどね。「最新学習歴」が大切になってくると思う。 この大学、この学校を出たら学位が出ますというのは、現状、文科省の便宜上の形式的な取り決めに過ぎません。例えば僕らの話を聞いても、学位が出るわけじゃないですね。しかし何かそこで気づきがあり、何かそこで学びがあれば、最新学習歴を更新したことにはなっている。 やっぱり最終学歴という考え方は、教育学習のチャンスが社会的に極めて少ない資源で、かつ学校とかにフルタイムで所属しないと、なかなか知識や技能を身につけることができない社会では一定の意味があったのかもしれない。しかし今は自ら学ぼうと...

「シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について」(晶文社・近刊)、どこよりも早く手に入る書籍販売付き出版記念講演会のお知らせ ver.12.0

― はじめて参加される方、「場違いだな」と思う方むしろ大歓迎(芦田の解題講演含みます)。 定価2970円(税込み)、560頁の『シラバス論』(晶文社刊)が、2400円(税込み)の著者割引で当日、どこよりも早く手に入ります!!。すでにAmazonでも予約できます→「シラバス論」予約 日時 2019年12月8日(日曜日) 場所 東京マリオットホテル(品川) 1階玄関左正面「スタジオ」https://www.tokyo-marriott.com/ 時間 14:00~16:00 会費 3600円(税別) ※おつりのないようにお願いします。   会費の中には   ※食べ物(14:00からなので軽食ですが我慢してください)   ・フィンガーサンド   ・プレッツェル   ・ミックスナッツ   ・トルティーヤチップ   ・フレンチフライ&オニオンリング   ・ミックスグリーン   ※飲み物   ・カー...

ver.2.0「シラバス論」序文 ― シラバス論が書かれなければならなかった四つの理由について

今年の11月刊行予定の書籍の「序文」ができあがりました(少し序文も長くなりました)。あとは、後書きだけです。 ※なお文中に表れる(●●●●●●)といった表記は、その直前の語句に降られる傍点を意味します。●の数はその直前に傍点が振られる語数と対応してます。ブログでは傍点を打つ機能がないのでこうなります。あしからず。 -------------- ●まえがきにかえて ― シラバス論が書かれなければならなかった四つの理由について 「シラバス論」。奇妙なタイトルを付けてしまったが、文字通りこの本は、「シラバスとはなにか」ということに一六〇,〇〇〇字(昔ふうに400字原稿用紙枚数で言うなら四〇〇枚)も書き込んでいる。たぶんこんなタイトルの本は、この本の前にも後にも出てこないだろう。それでも、この本については、「シラバス論」以外のタイトルは思いつかなかった。出版社が渋ってもゆずれない思いで、このタイト...

シラバスとは何か(2) ― コマシラバスはなぜ必要なのか ver.20.0

※なお、この論考は、他の論考も含めて『シラバス論 ― 大学教育と職業教育と』(仮題)として2019年11月に刊行決定(その他に人物入試批判、キャリア教育論などの原稿を併載)。このシラバス論だけで137000文字(昔風の言い方をすると400字詰め原稿用紙で約342枚)ありますが、途中で投げずにしっかり最後まで読んでください。教育関係者以外にも役立つはず。 この「シラバス論は120,000字を超えたところでブログサーバーの一記事容量制限を超えた模様でアップできなくなりました。もう増補分は実際出版される11月までお待ちください、と断念しかけましたが、折角700バージョンを超える加筆にあきもせず期待していただいた読者のために、【1(第1章~第3章)】と【2(第4章~第5章)】に分けて掲載することにしました。両者に【註】の通し番号を打っています。この形で両者とも出版まで加筆し続けようと思います。よろ...

シラバスとは何か(1) ― コマシラバスはなぜ必要なのか ver.20.0

※なお、この論考は、他の論考も含めて『シラバス論 ― 大学教育と職業教育と』(仮題)として2019年11月に刊行決定(その他に人物入試批判、キャリア教育論などの原稿を併載)。このシラバス論だけで137000文字(昔風の言い方をすると400字詰め原稿用紙で約342枚)ありますが、途中で投げずにしっかり最後まで読んでください。教育関係者以外にも役立つはず。 なお、この記事は120,000字を超えたところでブログサーバーの一記事容量制限を超えた模様でアップできなくなりました。もう増補分は実際出版される11月までお待ちください、と断念しかけましたが、折角700バージョンを超える加筆にあきもせず期待していただいた読者のために、【1】と【2】に分けて掲載することにしました。両者に【註】の通し番号を打っています。この形で両者とも出版まで加筆し続けようと思います。よろしくお願いします。→大学カテゴリーラン...

【本文版】シラバスとは何か ― コマシラバスはなぜ必要なのか(ver.750.0)

シラバスとは何か ― コマシラバスはなぜ必要なのか ※なお、この論考は、他の論考も含めて『シラバス論 ― 大学教育と職業教育と』(仮題)として2019年11月に刊行決定(その他に人物入試批判、キャリア教育論などの原稿を併載)。このシラバス論だけで120,355文字(昔風の言い方をすると400字詰め原稿用紙で約300枚)ありますが、途中で投げずにしっかり最後まで読んでください。教育関係者以外にも役立つはず。 なお、この記事は120,000字を超えたところでブログサーバーの一記事容量制限を超えた模様でアップできなくなりました。もう増補分は実際出版される11月までお待ちください、と断念しかけましたが、折角700バージョンを超える加筆にあきもせず期待していただいた読者のために、【本文】と【註】を分けて掲載することにしました。両者に【註】の通し番号を打ち照合できるようにしています。その形で両者とも出...

ノート論

1)ノート論 授業が〝わかる〟とか〝わからない〟とかいう場合の一番切実な問題は、学生一人一人の理解の水準に授業(授業教員)が対応できないということである。 理解の〝水準〟と言っても、それは学生の基礎学力に差があるということではない。〝水準〟というより、すべての人間(学生)は同じひとつのことを学ぶにしても、様々なプロセスを通して〝理解〟に至るのであって、一人の教員が授業で行う展開は、たんに一つの理解プロセスをシミュレーションしているにすぎない。...

「オンライン自己」について ― 日経BPnet「ストック情報武装化論」連載(第一回)

先日、私のTwitterのフォロワーから、日経BPnetに2010年から連載していた「ストック情報武装化論」(第一回~第九回)が読めなくなっていると聞いて、ブログに掲載することにしました。 なお、この「ストック情報武装化論」は、書き切れなかった最終回も含め再編集して(大幅な加筆修正を施して)、近々出版されます。最初の回は「オンライン自己」について。当時、結構反響を頂きました。出版の原稿は、この四倍の分量になっており既に出来上がっていますが、とりあえずはこの短編で我慢してください。 ------------------------- 91年の大学大綱化から早くも30年近く経った。「大綱化」の基本はカリキュラムの自由化。総単位数124単位以上取れば卒業できるようになった。従来存在した分野別の必修単位科目は設置基準上はなくなり、大学は自由にカリキュラムを組めるようになった。...

「実践的職業教育を担う新しい大学制度について」~公開パブリックコメント:高度な産業人材育成に何が求められるのか~ 基調講演とモデレータを務めます。

【高度産業人材育成シンポジウム】 「実践的職業教育を担う新しい大学制度について」~公開パブリックコメント:高度な産業人材育成に何が求められるのか~ --------------------------------------------------------- 【開催概要】 日時:2016年5月19日(木)19:00~21:00 場所:富国生命ビル14階・第4セミナールームA    :(東京都千代田区内幸町2-2-2) 最寄りの駅: 都営地下鉄三田線「内幸町」駅 A6出口 直結 JR山手線・京浜東北線・東海道本線「新橋」駅 日比谷口 徒歩6分 東京メトロ千代田線・日比谷線「霞ヶ関」駅 C4出口 徒歩3分 東京メトロ丸ノ内線「霞ヶ関」駅B2出口 徒歩5分 定員:200名(先着順) 参加費:無料 お申し込み・連絡先は、株式会社ベクトル 担当:川上、堀井 TEL:03-5572-7334 FA...

社会・経済の変化に伴う人材需要に即応した質の高い専門職業人養成のための新たな高等教育機関の制度化について(審議経過報告)に関するパブリックコメントについて

昨日締め切りの「社会・経済の変化に伴う人材需要に即応した質の高い専門職業人養成のための新たな高等教育機関の制度化について(審議経過報告)に関するパブリックコメント(意見公募手続)の実施について」 http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000825&Mode=0 、とりあえず最低限のことは書いて出しておきました。 ----------------- 今回の「社会・経済の変化に伴う人材需要に即応した質の高い専門職業人養成のための新たな高等教育機関」(以後、「新大学」と省略する)について、2点、疑問に思うところがあります。 一つには、この新大学の法制化については、学校教育法第83条「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開さ...

成人式を迎えるあなたへ ― 大人になるというのはどういうことなのか

大人になって〈自立する〉というのは、自分が使いたくないものにもお金を使うということを意味しています。われわれは〈光熱費〉にお金を使いたいなんて思いません。〈アパート代〉もできればなしで済ましたいと思っています。 しかし社会人になるということは、使いたくないものにも自分のお金をかけるということと同じです。そういうものを自分で担えるようになることを「大人になる」と言います。...

バカな若者について-人材育成の諸課題(増補改訂版ver5.1)

「会えない時間が愛育てるのさ」と郷ひろみは言いました。歌のタイトルはまさに『よろしく哀愁』だったわけです。「哀愁」(OUTPUTのないINPUT)こそが〈育む〉ことの原理なのです。 まさに大学受験勉強などは、それゆえ、「哀愁」の勉強だったわけです。最近の若者は、「哀愁」に「よろしく」が付いている意味がわからない(中曽根臨教審から最近の教育再生実行会議までの教育思想の犠牲になっているとも言えますがhttp://www.ashida.info/blog/2014/07/post_429.html#more)。昨今のコミュニケーション論の対極にある言葉が「よろしく哀愁」です。 さて昨年12月29日の忘年会のこと。若い人のよくある勘違いに出会った。...