Twitter(現X)微分論(1) ― 機能主義、サイバネティクス、フレーム問題、データベース(解説Podcast付き)
2026年2月10日 10:26
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Twitter(現X)微分論 ― 機能主義とメディアの現在
※機能主義とメディアの現在 ー 学校と仕事と社会の新人論(講演)
この講演は「知的生産の技術」研究会の定期セミナーに呼ばれてお話ししたものです(2010年12月13日、虎ノ門商工会館)。
知研の八木哲郎前理事長とは、現在の理事長・久恒啓一さんともども長い付き合いで、生涯学習組織の理想的なモデルとでも言うべき活動を行ってきている会です。八木先生が師と仰ぐ梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書)自体が「生涯学習」宣言とでも言うべき名著でした。八木先生は梅棹の「知的生産の技術』をまさに〝実践〟されたわけです。そんな会のセミナーに呼ばれて(これで二回目の登壇ですが)、ちょっと張り切りすぎました(笑)。文字起こしは八木先生自身がされて、それに大幅な修正・補筆・註を加えています。見出しは後づけでつけています。内容に前後して重複もありますが、お許しください。
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1)はじめに
●寝ても覚めても「形而上学」とは何か、が問題です
2)機能主義とは何か
●機能主義の起源はパブロフの犬
●機能主義はインプットとアウトプットの〈中間〉にあるものは無視する
●コントロールできないものとコントロールできるもの
●サイバネティクスの原理は「実際の」行動に対応すること
●フィードバックシステムとは「思考」と同じ(=考える機械)
●機能主義から行動主義へ
●チューリングテスト
3)機能主義の蹉跌
●フレーム問題
●〈関係のないもの〉を無視する、忘れることができる人間
4)環境とは、後からやって来るもの
●因果を辿れない「環境」
●自伝は、自分の人生を二度殺しているのと同じ
5)データベースと後悔
●〈後悔先に立たず〉を解消するためのデータベース
●なぜ〈検索〉なのか
6)近代の問題
●近代的主体性=自由の問題 ― 人間性をいうのは差別主義、階級主義
●マークシート試験、○×試験、選択問題こそが、近代的自由の源泉
7)Twitterにおける自由と平等
●検索主義の解体
●Twitterにおけるストックの時間性 ― 専門性とは入力と出力の間に時間差があること
●ハイパーリンクの課題 ― 強力な学びの主体がないと機能しない
8)Twitterにおける検索主義の解消
●Twitterの5つの特徴
1) Twitterはデータベース(ストック)ではない
2) 単にフローではなく、〈現在〉を共有している
3) 現在の共有=inputとoutputとが同時に存在する
4) 情報の先に、いつも同時に書き手と読者が存在している(情報の身体化)
5) この書き手と読者との同時存在は、いつも断片化し、ストック化に抗う
9)1990年前後から始まったオンライン自己現象
●ネット上の人間関係でしか自己を形成できない人たちの群れ
●ハイパーメリトクラシー教育
10)消費社会とオンライン自己
●消費社会の深化はストック人材をますます不要にしていく
●「主体」が未形成の人に「主体」を強要する矛盾
11)IT社会(高度情報化社会)とオンライン自己
●人間関係重視の社会
●高卒求人数の10分の一の激減
●「主体」が未形成の若者に「主体」を強要する矛盾
●小さな共同体における他者の肥大
●内面の肥大とTwitter現象
●現在を微分することの他者化機能
12)Twitterの〈現在〉の限界とポストモダン
●現在の微分は、身体と死の微分
●「時間を忘れること」と「死を忘れること」
●「セックスなう」と「死ぬなう」
※補論:土井隆義の個性論(『個性を煽られる若者たち』における個性論)
●個性とは、内在の別名か?― 土井隆義の個性論(1)/〈現在〉を書き留める「濃密手帳」― 土井隆義の個性論(2)
●関数主義としての機能主義functionalismこそが〈個性〉を要求する
●個性幻想とコミュニケーション幻想との機能主義的な矛盾
●ヘーゲルと「存在しない」今と「終わりなき日常を生きろ」と終わりの日常化
●「人間は外見じゃない」というのはあり得ない「話せばわかる」が無効になること、あるいは決着の時間性について
●動物の生死と人間の生死とツイッターとーツイッター再論(1)
●身体の心理主義化と「死ぬなう」デカルトの主観)の現前性からハイデガーの(気分)の現前性へ 一 ツイッター再論(2)
13)〈新人〉の発掘としての学校教育ーハイデガーのエネルゲイア論と大学
●新卒人材の「即戦力」論は間違っている
●新人賞は矛盾した作品 ― 「作家は処女作へ収斂する」の意味について
●「できない学生」ほど大学へ行くべきだ/終わりを見た人としての大学教授
●ハイデガーのエネルゲイア解釈と新人論
●最後に ― 暇な人でも忙しい窮乏の時代
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1)はじめに
●寝ても覚めても「形而上学」とは何か、が問題です
「形而上学(メタフィジックス)」というのは、ラテン中世を通じて変質してしまい、デカルトの「主観性」で完全に停滞して、その反省が20世紀に入ってハイデガーとかヴィントゲンシュタインの思想に流れこんでいくという話を私の日経BPnet連載「ストック情報武装化論」でふれましたが、アリストテレス自身は「形而上学」という言葉を知らなかった。それは後の編纂者の用語です。
アリストテレス自身は「プロテ-・フィロソフィア」としか言っていない。
彼が「プロテ-・フィロソフィア」と言ったのは哲学中の哲学という意味での「初源の(根源の)」哲学という意味でのことですが、そもそもギリシアで「フィロソフィア」というのは、ギリシャでは、サイエンスも含めた学問全体を指していた。「フィロソフィー」は、今で言う「哲学」ではない。今よりも、ずっと広い意味を持っていたわけです。
だから「フィロソフィア」は今みたいな抽象的な原理(思想)だけを問う思考ではなかった。アリストテレスが言っていた「プロテ-・フィロソフィア」は後に「メタフィジクス」=形而上学と言われているものですけれども、その「プロテ-・フィロソフィア」は、編纂上の都合で「自然学(フィジックス)」の「あと」(メタ)に置かれてしまった。編纂上の都合で、「自然学」の「後の巻」というのを「メタフィジクス」=形而上学と呼んでいるわけです。
アリストテレスも知らない編纂上の都合でつくられた「メタ・フィジックス」という言葉は現代に至るこの2000年間を支配し、悪く言えば2000年以上もアリストテレスの「プロテ-」構想は隠れ続けて今に至っているわけです。
「プロテ-・フィロソフィア」の主題は存在論です。つまり〈人間(魂)〉、〈自然〉も含めたあれこれの存在者が「在る」という問題です(アリストテレスが言った「様々な仕方で存在は語られる」というもの)。
「無」ではなくなぜ「在る」のか(ライプニッツの問い)。「無」も在るわけだから、「在る」ということの問題をどう解くかが一番大きな問題だった。それなのに、「メタフィジックス」という編纂上の言葉とともに消えてしまったのが、ハイデガーの言う「存在忘却」の歴史であります。
今日、お話しする隠れた主題は、この存在論の問題ですが、このことを真正面からお話し始めると限られた時間の中でほかの話ができなくなってしまいますから、とにかくレジュメに書いたことを全部話すつもりでまとめました。綱渡りのような話し方になると思いますが、2,3箇所くらい「なるほど」と思って下されば今日の話は成功です(笑)。
この「プロテ-・フィロソフィア」の話は、今日のお話の最後のところのお話です。レジュメにある「形而上学の存在―神―論的体制の、存在者(範例的存在者としての現存在=人間)から存在へのベクトル」のところが「存在忘却」の問題ですが、このラストの話につながるようにうまく話せるかどうかはわかりません(笑)、体調に関わるほどの琴線を踏む論題なので。とにかくやってみます(笑)。
2)機能主義とは何か
●機能主義の起源はパブロフの犬
まずは、諸悪の根源、機能主義からお話しします。機能主義は高度情報化社会の今日のみならず、近代という時代そのものを画している思考です。だから、最初にこの問題を取り上げます。
機能主義というのは「ファンクショナリズム」の日本語訳です。「機能主義」と訳した原語はファンクション(function)ですから、関数のことです。だから機能主義とは「関数主義」ということです。機能主義というと実益主義ととってしまう人がいますが、そう訳すと誤解する人が多くなる(実益と無関係ではありませんが)。
私はこの言葉を、先代の研究者たちはちゃんと訳しておくべきだったと、日経BPnetの先の連載で書きました。
それというのも、私が十代後半から20代前半にかけて圧倒的に影響をうけた吉本隆明が、自分がやってきたことをひたすら話し続ける長い講演会(NHKのETV特集)で、自分にとっては〈自己表出論〉がすべてだったといい、この自己表出論は蔓延する機能主義に対する戦いだったのだということをポツリと言ったのです。
私はそれがすごくピンときて(たぶん、この吉本の言葉を理解できるのは私だけだと自負していました・笑)、やはり機能主義が問題なのかと思いました。吉本の〈自己表出〉論は、もともと〈指示表出〉における機能主義的な言語論を意識していたわけです。
ハイデガーも、サイバネティクスを最後まで機能主義と見なして闘ってきましたが、吉本もそうだったのか、それを私なりに整理しなければいけないなと思いました。かねてから機能主義については触れてきたのですが、たまたま、私のTwitter都庁講演を聴いてくれていた日経BPnetの編集部がそれを聞いて書いてくれと言ってきました。それで連載を始めたのが「ストック情報武装化論」です。
ところが、依頼した編集部はあんな記事になるとは思っていなかったらしい(笑)。あんな堅い話が日経BPのようなマスメディアに載って、いったい誰が読むのかしらないが、きめて異例(笑い)。
●機能主義はインプットとアウトプットの〈中間〉にあるものは無視する
さて、機能主義のファンクショナリズムは、私が考えるところ、パブロフの犬の条件反射論が最初だと思います。
パブロフの条件反射論というのは、ベルを鳴らしてから犬に食べ物を反復的に与え続けると、そのうちにベルを鳴らしただけで犬に唾液が出てくるようになるというもの。本当は「ベル」ではなくて、「足音」だったらしいのですが。
このことはどういうことかというと、とあるインプットを反復的に、規則的に流し続けると、とあるアウトプットが生じる。インプットがあってアウトプットがある。しかし真ん中の部分(食べられるから唾液が出るという因果関係を担っている〈犬〉の実体)はブラックボックスで、真ん中を無視している思考なわけです。
ある刺激を与え続けるとどんなアウトプットが出てくるか、そこにある傾向性、規則性が見出されれば、それが何で〈ある〉かはその傾向性、規則性が決めるのであって、その中間(担っている実体)が何であるのかは無視してよろしいというのが条件反射論です。
そういうinputにそういうoutputが生じれば、そういうのが犬〈である〉と、そう考えるのが条件反射論の思考の本質なわけです。
刺激―反応の一定の規則性こそが、その存在者の実体性を構成するものであって、〈主体〉や〈内部(内面性)〉や〈心〉というものは存在しない。この考え方がウィーナーのサイバネティクスの一番の基本になります。
●コントロールできないものとコントロールできるもの
ウィーナー(1894―1964)のサイバネティクス論が出たのは第二次大戦前後です。
サイバネティクスという言葉は、語源はギリシア語ですが、元々は操舵者、舵を取る人という意味です。
100キロくらいの沖合から港に船を着けるには、沖から吹いてくる風の強さ、波の強さ、それから手漕ぎの動力や舵の方向などの諸要素を勘案しながら風や波に流されないように舵を切ったり、出力を調整していきますが、これはウィナーのサイバネティクスの原理そのものです。
コントロールの変数(制御変数)とアンコントロールの変数(非制御変数)の2つの変数ですべての世界を見て行く。
船の操舵者(船頭)にとっては舵や手こぎの動力はコントロールできますが、風だとか波だとかは制御できない。通常我々が「自然と人間」と言う場合の〈自然〉とは、ウィナーにとっては非制御変数、つまり自分でコントロールできない要素のことを言っているわけです。
一方、船頭は舵の向きや自分の船の動力は制御できる。したがって船頭は自分が制御できる変数を通じて、制御できないもの(風や波の変化)をコントロールできる。船頭は風や波に押し流される分を計算して(フィードバックして)、舵や動力を調整するのです。
制御できないもの(風や波)を、制御できるもの(舵や動力)を使って相対的に支配する(コントロールする)ということは、工学分野、人文分野を超えてあらゆるものに応用できるとウィナーは考えました。
たとえば、女性が美しい服を着たり、化粧をしたり、髪形をいじったりするのは、仮に顔が醜い人(失礼!)にとっては、それをコントロールしているということになります。醜く生まれてしまったというのはその人にとっては非制御変数なのですから(笑)。
それでそのことをすこしでも制御するために化粧をしたりきれいな衣装を着たりする。つまり制御変数でもって、自分の有限性や受動性を突破しようとする。自然科学も文学も全部そういった制御できないものと制御できるものをその都度踏まえながら、そうやって自分の有限性や自分の環境の有限性、受動性を突破しようとする試みなのです。それがサイバネティクスの思考、サイバネティクスの文化論、文明論、世界観です。
●サイバネティクスの原理は「実際の」行動に対応すること
この思考は製品の原理などにも身近なところでいくつも応用されています。使い古された例で言えば、コタツのサーモスタットは熱膨張率の異なる2枚の金属板をくっつけておいて、温度が高くなってくると熱膨張率の高い方が伸びて膨張率の低い板を引っ張りますから反りかえる。するとそこに接点があって電気が通じて暖かくなる。暖かくなりすぎると、その逆が起こってスイッチが自動的に切れる、というふうに温度を調節しています。こんな素朴な制御のこたつは今はありませんが(笑)、原理は単純。これもサイバネティクス。
ビルの自動ドアはいつ人間がそこを通行するかわからないけれども、人間がくると、自動ドアは自動的に開き、自動的に閉じます。そうしてちゃんと「実際の」、つまり不意の、偶然の出入りを制御しています。
ウィーナーはまさに「実際」という言葉を使った。「実際の行動」に対応することがすごく大事で、この"実際の"変化に対応する制御を彼はフィードバックといいました。
「実際の行動」という言葉をウイーナーは、「予定の行動」の対立語として使っている。「機械的」とは「予定の行動」にしか対応できないということです。これはどういうことかというと、input(入力値)がoutputされたらそれはもうそのまま放置される。
ドアは開ければ開けっ放し、閉めれば閉めっぱなしです。これはinput(開けるという行為)からoutput(ドアが開くという結果)への流れが片方向です。この場合、入力値はドアを開けるか閉めるか、出力値はドアが実際に開いているか、閉じているかです。
通常の「機械的」操作では、開ければ開けっ放し、閉じれば閉じっぱなしですが、自動ドアは開けても閉じるし、閉じても開ける。「実際の」必要に応じて。〈自動〉とはそういうことです。
●フィードバックシステムとは「思考」と同じ(=考える機械)
開けても閉じるし、閉じても開けるというoutputからinputへの差し戻しの過程を「フィードバック」と言います。それは結果を、目的から、目的に基づいて反省するプロセスのことです。
結果(output)を見て、態度(input)を変更するということを「フィードバック」というのです。様子をよく見て行動しろということです。
例えば、人がいるときだけ点いて、いなくなったら消えるという電灯システムを作るとすれば、それはフィードバック制御を持った電灯のオン・オフシステムです。
つまりウィーナーはそれを「考える」スイッチとみなしました。自動ドアもまた「考える」ドアです。
彼は人間の思考についても、それはフィードバック制御のことではないかと考えました。つまり「あの人は思慮深い人だ、機械的=形式的ではない」と言うとき、思慮深いというのは、自分が起こしたアウトプットに対して、再度インプットの変更の可能性を見込んでおいて、インプットのやり直しを絶えずやり続けていることを言います。意図が必ずしも伝わらないことはいくらでもある、どうすればそれが伝わるのか、何を変えればそれが伝わるのか、これは、ウィーナー的に言えば、「制御」ということです。人文学的には「考える」ということです(と少なくともウィーナーは考えた)。
そうなってくると〈人間〉と〈機械〉の区別はなくなってきます。コンピュータが進歩して複数の制御を瞬時にすることができるようなXが存在したときに、それを果たして人間ではないと言い切れるのか。ウィーナーはそんな区別をする必要はないと考えました。大変な挑戦だったわけです。
5)データベースと後悔
●〈後悔先に立たず〉を解消するためのデータベース
「後悔先に立たず」という格言がありますが、ニーチェは「かくあったは意志の歯ぎしり」と言っています。かくあったというときには意志は役に立たない。かくあった=過去というのは後悔の対象なんです。
データベースとは何か。情報社会のデータベースは何を目標にしているかというと、何でもいいからデータにしておけということなのです。
この間、「NHKスペシャル」でアメリカのゲーム会社がゲーム開発のプロジェクトをやっている話が放映されていました。ゲームだけを専門にやる人が、まだ製品として出していないもののテスターになって、ゲームをするわけです。脳波をどれくらい刺激させるか、顔の表情の変化を見ていて、このゲームは売れないのではないか。興奮しつづけっぱなしのゲームも疲れて二度とやらないようだ。ゲームマーケティング会社の社長は一回のゲームを終えるのに、全体で50回ぐらい刺激=緊張を与えるのが一番いいという係数を出していました。脳波の緊張の山がゲーム全体が一回終わるまでに50回ぐらいあって、それに対応するリラックス場面と追い込まれる場面を交互に上手にもっていくのがよい、という結論を出していました。
それは全部、機能主義ですよね。どういうゲームのインプットを与えると頭の中でどんな変化が起こって、その変化のどんなモデルが快感モデルなのかを追求して売れるか売れないかを判断する。ゲーム会社の社長にとっては売れなかったという後悔をしないですますよう出来るだけデータを集めておくためにはどうすればよいか考えているわけです。
そうなると、データベースの構築で何が起こってくるかと言うと、「どんなデータでもいいから入れておけ」ということになってきます。何が必要なのかは後でしかわからない。後でしかわからないことを先立たせるためには、何を入力するかを含めて入力値を差別化しては駄目だということです。
皆さん、名刺ってたくさんもらいますが、こんな奴とは絶対に二度と会わないなといって捨てた名刺が六ヵ月後に必要になったということはありませんか。そう考えたら、もらった名刺の人物評価は後にして、その評価を押し殺して、ちゃんと名前を書いて、いつ会った人なのか、どんな人なのか、記憶にしたがって書いて置くしかないんです。そこは気持ちを押し殺して入力機械になるしかない(笑)。
要不要の〈評価〉というのは、実は平均値なのです。だから情報が丸まってしまう。そこに人間、ヒューマニズムを入れては駄目なんです。データは絶対に入力では差別してはいけない。
しかしむろん大半の入力データは使われない。それに無駄なものを選別と消去なしに累積していけばデータは膨大になって使いづらくなってしまう。どこかで差別(選別)する必要が出てくる。
その差別と選別のために存在しているのが〈検索〉です。最近のコンピュータは入力で差別=評価しなくていいぐらいデータを無制限に入れることが出来るようになっています。しかし、ノートだとか日記帳だとかの紙の媒体にアナログで入力していたときにはこれ以上入れていったらとんでもないことになるということで、入力段階で差別するしかなかった。連絡帳なんかやがて書ききれなくなってぼろぼろになって字が読めなくなってしまいますから、途中で捨てていました。
ところがIT時代になって、CPUが高速になり、ハードディスクが安くなって、高性能なコンピュータ自体が安くなってきた。今、2テラとか3テラでも1万か2万円で買えるようになっている。テキストベースであれば、100年、データを、それも無駄なデータを入力し続けても大丈夫なデータベースができるようになっています。
そもそも〈情報〉とは、入力差別のない知識のことです。つまり評価を得ないで蓄積されるデータのことです。無駄な知識とはそれ自体知識ではありませんが、情報はもともと無駄な情報の集まりのことなのですから。この無駄(の価値)が、フレーム問題と関係していたわけです。
●なぜ〈検索〉なのか
それで〈検索〉というものが出てきた。〈検索〉とは何をやっているのかというと、無時間的、無選別的に蓄積された情報を(判断と評価が迫られる)〈現在〉という時点におけるに情報にまで持ち来たらすということです。データは入力で差別せずに検索で差別すればいい。どこから出てきたのか知らないけれども、そのとき自分の行動に役立つデータがそこに出てくることが検索ということになります。〈検索〉の機能は現前化=現在化ということです。
だから〈検索〉データベースは、データ量(HDD容量)だけの問題ではなく、時間(CPUの高速化)の問題でもあるのです。
検索には強大なサーバーと超高速のCPUが必要です。すごい量の情報があったとしても必要な情報を出してくるのに時間がかかってしまったら意味がないのですから。強大なサーバー、データベースと超高速のCPUが存在すれば、人間が一生の間に必要であるようなデータはいつでも現在の手元に持ち来たらすことが出来ます。それが後悔を先立たせるということです。それがデータベースの根源的な欲望です。
IBMのディープブルーという、ロシアのチェスの名士と戦うコンピューターがありましたが、このコンピューターに、過去のいろんな手を無制限に入れておいて、こう打てばこう勝った事例、こう負けた事例がある、というデータを、相手が一手ごと打つたびに、超高速で検索をかけて出力しているだけのことです(厳密にはもう少し高級なことをやっていますが)。
棋士の羽生名人はデータベースをすごく意識しているけれども、逆に羽生さんは何手もあるうちから選んでいるということではなくて、むしろやり始めると捨てるもの(考えなくてもいいもの)が何なのかという手が見えてくる、こう打つしかない手が見えてくるという言い方をしています。選択(事例主義)ではないということです。
データを拾うのではなく捨てると、言わば反データベース的なことを言ってるようにも見えますが、それでもそれは彼ふうの検索術を述べているのかもしれない。そうでないかもしれない。興味深いところです。
〈後悔〉を先立たせるデータベースというのは、フレーム問題における無視と忘却という問題を情報の膨大性(と超高速)というところでカバーしようとしている装置です。〈データベース〉とは機能主義(ファンクショナリズム)の極限にいます。ロボットもデータベースの一つです。アクチュエータ付きのデータベースがロボットです。だからロボットは忘却もしないし後悔もしない。
情報が膨大になるということはむしろ忘却の別表現だというのが機能主義の考えです。それは当然であって、インターネットの情報なんて知らないことの方が圧倒的に多いんだし、我々が日常使っているワード、エクセルだって使っていない機能のほうがはるかに多い。5千円のATOKでも、その機能をどれくらい使っているのかというと、10円あるかないかでしょ。ワードやエクセルなら1円分もない。それがデータベースの忘却と無意識です。ATOKは膨大な辞書類を内蔵しているからこそ、長文をすらすら書けるように単語変換してくれます。つまり人間性の有限性(空間的、時間的有限性)をATOKデータベースがクリアしているわけです。
膨大な情報量(と超高速CPU)という事実が、機能主義を機能主義的に見せないで、どんどん人間に近づいているかのように見せている一番大きな要因だと思います。心理学者たちもそこを錯覚しているのです。「属性」なんていい加減な概念を信じながら。
そういった膨大な情報量が〈現在〉という場面に持ちきたらされる理由は何なのかと言うと、それは自分が行動するときに出来るだけ無制約でいたいということにほかなりません。「必要な」情報が欲しいというのはそういうことです。あらゆる情報を勘案した上で1つの正当な(=後悔をしない)行動を決定する意思が存在することがもっとも幸せなことだという前提があるからです。
今のITを使ったテクノロジーはものすごく高度な制御をするようになっていて、例えばホンダのアシモは中に人間が入っているのではないかと思うくらいです。ぬいぐるみに話しかけて泣きながら寝る女の人もいますが、もしそのぬいぐるみがしゃべり始めてご覧なさい。その人は下手な恋人によりも、もっと感情移入するかもしれません(笑)。
●機能主義から行動主義へ
HONDAのアシモの中に人間が入っているのではないかと思うというのは機能主義の次の段階の「行動主義」です。「行動主義」というのは、英語のbehaviorismの日本語訳です。
この「行動」という翻訳がまた間違っています。behaviorを「行動」と訳すと何か「理論」との対立のように見えますが、要するに外見=外貌(behavior)が中身を決めるという考え方なのです。「行動」主義の「行動」(behavior)と対立しているのは、むしろ〈内部〉、〈内面〉、もっと言えば、表に見えないという意味での〈心〉なのです。
〈内部〉なんてものは〈外部(behavior)〉なしにはない、と考えるのが行動主義。中なんて見た人はないでしょう。中というのは外からの推論なのです。外がもし人間らしければ、それは「人間」と言っていい。そういうのがウィーナーや、頭に「行動」という言葉が付く学問の考え方です。頭に「行動」という言葉が付く学問の原型はすべて条件反射論です。
中に血が流れているとか、心臓があるとか、肝臓があるとか、高度に発達した脳があるとか、挙げ句の果てに「人間的な能力」の「存在」、ギリシャ的には〈魂〉を指摘して「人間らしさ」を言い張るのは、差別だと言いたいわけです。〈外部(behavior)〉がそう見えるのであれば、中身もそうだということでいいではないか、と。
●チューリングテスト
アラン・チューリングという人は、機械が人間であるかどうかをテストするチューリングテストというものを考えました。
AとBの部屋のそれぞれに人間とコンピュータを入れておきます。それに対して、人間である第三者がどちらの部屋にコンピュータが入っていて、どちら部屋に人間が入っているかをコンピュータのインプット、アウトプットのやり取りで判断して当ててみるというテストです。
どちらがコンピュータのように杓子定規で、どちらが人間の実際のチャットのように回答したかということを当てさせるテストですが、この実験を何度かやるうちに(コンピュータがどんどん、将来的にも高性能になってきて)テストする人間が当て損なう率がどんどん高くなり、機械がしゃべっている方が人間だとみなす誤答率が増えてくれば、Bは人間であると考えてよろしい。その時にテストした人間がBの部屋を開けて「なんだ、お前、機械か」というのは"差別"じゃないかということです。
東大生だと思われるくらい賢そうな青年がいた。学歴をしらべたら中卒だった。なんだ、お前、中卒か、と言ったら差別でしょ。それと同じです。ビヘイビアリズムにおいてはそこはまったくイコールなのだから。民主主義はビヘイビアリズムという立場とまったく一致します。アウトプットとインプットの関係がすべてを決めるので、中身が中卒であろうと、高卒であろうと実力でアウトプットを示せばいいんです。それを差別したらいけない。実力主義というのはビヘイビアリズムのことです。
このビヘイビアリズムについて、ジョン・サールという哲学者がチューリングの人工知能テストは間違っている、それはコンピュータがただ単に記号的な処理をしているだけで、人間的な処理なのではない、と反論しました。しかしこれは変ないいがかりです。アウトプットにおいて差がなければ、それを人間とみなしてよいという議論をしているときに、「人間的」でないとしか言わないのだから、ジョン・サールは、ふたたび「人間的」とは何かについて不問にしたにすぎない。ひょっとしたら人間は単純な記号処理をしているだけの存在かもしれない。
2,30年前にイライザという精神疾患者と話すためのコンピューができて、真剣に患者がコンピュータに話しているんです。見ているとI(私)がYOU(あなた)になったり、YOUがIになったり、人称代名詞が転換をしているだけでも、20分、30分話せるということが非常によくわかる。チョムスキーがやっていたことは結局そういうことです。そういうある種のやり取りをよくみてみると非常に単純なコードで人間の会話が成立していることがわかります。
だからジョン・サールの批判は一番大事な問題に答えていなくて、ひょっとしたら人間というのは単純な存在かもしれないという問題があって、それに反論しようと思ったら人間は複雑なのだということを証明しなければならない。人間は、自分が人間「である」ために、「人間的」と言えばすべてがわかっているような気でいますが(「だって人間だもの」なんて言う詩人もいましたが)、ことはそれほど自明ではない。
3)機能主義の蹉跌
●フレーム問題
このように機能主義というのは強力な思考なわけで、私の日経BPnetの連載でも触れましたが、「フレーム問題」というのが1980年代に出てきました。
ダニエルデネットは、その問題を考えるために、映画「スターウォーズ」のR2D2というロボットの開発プロセスを例示しています。R2D2は限りなく人間の頭脳=知性に近い(あるいはそれを超える)能力をもったロボットとして登場。
このR2D2が開発される手前の段階にR1D1というロボットがいたのだというふうに、デネットは議論します。
開発者たちは、まずこのロボットR1D1にどういう課題を与えたかと言いますと、自分の充電バッテリーが切れそうになったので、自分の動力源である充電バッテリーを取りに行けと命令した。その充電バッテリーはある倉庫のワゴンの上に置いてあると指示。R1D1はワゴンを認知してバッテリーを取り出して持ち帰ろうとした。しかし、充電バッテリーの下に時限爆弾が仕掛けてあって、それが爆発してR1D1は死んでしまった。
どうして失敗したのかというと、R1D1は自分が行動する段になって副産物のコードを入れることができなかった。つまりワゴンの上に置いてある充電バッテリーを取り出すためには、ワゴン全体の中に入っている余計なものも取り出すことになるから、その余計な副産物を認知してそれを除外するための副産物処理のコードを入れておかなければならなかったが、R1D1にそれをさせることができなかった。これが失敗の原因だったということです。
これを反省して今度は副産物処理をとりこむコードをいれたR1D2に同じことをやらせた。R1D2はワゴンのところまで行ったが、じっと考えて動かなかった。その間に時限爆弾が爆発してこれも死んでしまった。なぜか。
R1D2はたしかに副産物を考えようとしましたが、副産物なんていっぱいある。たとえばテーブルを持ち出すときにテーブルはゴトゴト音がするし、テーブルの上にはゴミも落ちている。テーブルを動かすと部屋の気流が変化して何かが起こるかもしれない。つまり1つのテーマ主義的な行動を起こそうとすると、かなりの、ほぼ無限の〈副産物side effect〉が生じる。
皆さん、ちょっと考えたらわかりますよね。風邪を引いて風邪を治すための薬を飲む。これはテーマ主義(知識主義)ですよね。風邪の薬というのは風邪だけに作用するわけではないから、それを飲んだことによって副作用が起きて逆に病気が重くなったという問題と同じ、というか、副産物なんて考え始めたら、何もできないわけです。副産物を"考える"と、何もできなくなる。
次に科学者たちは何をロボットにやらせたかと言うと、副産物の中にも、どうでもいい副産物とちゃんと処理しなければならない副産物の2つがある。したがってちゃんとした行動をさせるためには、大事な副産物とどうでもいい副産物を見分ける必要がある。科学者たちはそう考えた。
それでまた、R2D1という新しいロボットに副産物の要不要を見分けて二重の処置をするプログラムを入れた。
ところがまたR2D1はワゴンの前に佇んで動かなくなった。もっとなにもできなくなったのです。つまり重要なものとそうでないものを分けているのだけれども、その種類がいっぱいあって大変だとR2D1は言って、また爆死してしまった。
行動のテーマと副産物とを分けるのだけでも大変だったのに、さらにその上、その副産物を重要なものと重要でないものとに分けるのだから、「作業量」は格段に増えているわけです。だからもっとじっとしたままR2D1は爆死してしまった。
これがテーマのフレームとその外(この場合でいえば副産物)との関係を巡る〈フレーム問題〉というものです。ロボットに人工知能をつけて人間と同じようにやらせようと思ったら、これは大変なんです。人間が行動するということは、いつもその〈外部〉を保持しているけれども、その〈外部〉の保持が、ロボットには難しい。というのもロボットは、その外部をプログラム化しなければいけないからです。
●〈関係のないもの〉を無視する、忘れることができる人間
人間は確かに薬を飲んで副作用で死んでしまう人もいるけれども、いろんな副作用を乗り越えて、それなりになんとなく処置している。つまり人間はなんとなくフレームの問題に関して処置できる能力を持っているということが言えます。
それはどういうことなのかというと、人間は、関係のないものや関係のあるものについてのある種の処理装置を"内部"にか、"経験的"にか持っているということです。
科学者は驚くことができるロボットはなぜできないのかという問題を提起しました。驚くロボットってどういうことかというと、僕が今、皆さんに話しているときに、急にこの部屋の電気が消えるとしたら、皆、驚きますよね。それは僕が話すという行為と、電灯が消えるという事態には因果関係がないということをなんとなくわかっているからです。
つまり関係のないものは無視するということを人間は心得ているということです。私が話すというテーマ的な行動には、いちいちプログラマーがプログラムに書き込むように、私がしゃべっても電灯は消えたりしない、あるいは壁が倒れたりしない、急に風が強くなって窓ガラスが割れるというようなことはない、ということを無限に取り込んでいるからです。
私が話しているときにもしそういうことが起こったら、ここの会場の人たちは皆驚きますね。そういうことをもしロボットにさせようと思ったら関係ないことを無限に書き込んでおいてそれが起こったときには驚きなさいとプログラムに書かざるを得ないことになります。だから、〈驚く〉って大変なんです。〈驚くθαυμάζειν〉ということが哲学の始まりだといったのはプラトン、アリストテレスです。だからロボットは哲学が出来ないのです。驚くということは高度な行為なのです。
犬や猫も時々驚いていますが、その問題をどう考えるかは、また別の問題です(アガンベンというイタリアの哲学者が突っ込んで、その差異と連関について論じていますが、それは今置いておきます)。
(まだまだ続く)
