Twitter(現X)微分論(2) ― 因果と環境とデータベースと(解説Podcast付き)
2026年2月10日 12:32
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「Twitter(現X)微分論(1) ― 機能主義、サイバネティクス、フレーム問題、データベース」https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat40/twitterx1.html からの続き
4)環境とは、後からやって来るもの
●因果を辿れない「環境」
関係ないものというのは考えなくてもいいものです。だから人間の偉大さは関係のないものを無視したり、忘れたりすることができるということにあります。
ニーチェはそれを「能動的な健忘」といいました。特にユダヤ-キリスト教的な怨恨の思考に対して。怨恨とは、忘れないことから来ているからです。
生活に差しつかえる健忘ではなくて、むしろ忘れるということが人間がもっとも健康的に生きていられる条件ではないのかとニーチェは考えます。それによって考える能力を活性化できる。駄目な人ほどくよくよしていますよね。どこの職場でも悩み好きという社員がいるでしょ。そんなのはクビ(笑)。「問題」「課題」というのは、自らの無能を遅延させる言葉。結局、解決したくない、何もしたくないだけのこと。過去にこだわっているだけなわけです。さっさと何とかしろよ、お前、と言いたくなる。ロボットR2D2はそういった問題を解決したらこんなロボットになるという想定で造られたロボットなんです。
だから関係のないものを無視したり忘れるということはすごく大事なことで、先ほどの大澤真幸の言葉に「無視」とか「忘却」とは、「自らが存在することの現実性を、その操作が直接に帰属する時点には確立できず、その時点の後に確立する・・」とあったわけです。
つまり、僕が今ここでしゃべっているときに、急に風が吹くことはない、電灯が消えることはないとかいうのは、しゃべっている時点ではせず、その時点の「後に」確立する。
あれこれの操作や行動の〈現在〉にではなく、その操作や行動にとって未来であるような場所に、存在の現実性をはじめて確保することができる。したがって未来からの逆投影として「かつてあったもの」として発見される。
つまり電灯というのは、それが急に消えたことによってはじめて電灯があったことが発見されるというふうに存在する。この時間性を人工機能はどうするのだという問題が〈フレーム問題〉です。フレーム問題とは「フレーム」という言葉に引きずられて空間的な問題のように思われがちですが、実はその根本は、こういった特殊な時間構造なのです。
これは普通に人間的な言葉で言うと、人間が育つ環境というものは先の大澤真幸の規定そのもの(「自らが存在することの現実性を、その操作が直接に帰属する時点には確立できず、その時点の後に確立する・・」)だということです。フレーム問題の時間性とは、環境の時間性のことです。
自分はどういう環境に育ったから、今の自分になったという話はいくらでも聞きますね。今の自分が将来に向かってなるであろうところのものを想定しないで、自分を育てた環境なんて言えないということです。
●自伝は、自分の人生を二度殺しているのと同じ
僕は日経BPの連載に黒柳徹子の「窓際のトットちゃん」を例にしてこれを説明しました(かつて吉本隆明も触れていたような気がします)。
「窓ぎわのトットちゃん」という超ベストセラーになった本は黒柳さんが小さいときのことを書いたものですが、彼女は小学校のとき悪さのし放題で、授業も受けず、授業中でも先生と追いかけっこをして逃げ回っていた、というようなことが書いてあります。
あれを真に受ける親がいたら、とんでもない話になりますね。何でそんなことを平気で書けるかというと、黒柳徹子はそういう自由奔放な小さいときの教育を許してくれた学園の雰囲気があったから今の自分があるのだということにして、自分の環境を自分で語っているわけです。
だけど、そんなものをありがたく思う人間は、今の黒柳徹子を立派な人だと思っている人だけです。逆に「お前、そういう環境に育ったから、そういう過去があったから駄目なんだよ」と言われたら終わりではないですか。もっと言えば、そのときもっとちゃんと勉強していれば、もっとすごい大人になっていたかもわからない。
結局、過去の悪さを平気で人前で晒すことのできる人、公言できる人は、自分の現在(過去にとっての将来)を自己肯定している人なわけです。つまり過去の悪さの指摘は、今の自分の、形を変えた"自慢"にすぎない。自伝を読む人というのは、大概のところその著者の支持者(拡大された自己)にすぎないわけです。
ピカソの話もそうです。ピカソもデッサンをすごくしっかりやったから今のような抽象画が描けるんだと(もっともなことを)言う人がいますが、ピカソがデッサンがあまり出来なかったら、もっとすごい抽象画を描いたかもしれない。
僕の身近な話題で言うとフッサールという哲学者がいますが、彼は『論理学研究』という、私が彼の著作の中で一番評価する著作を書いています。そのときにフッサールはギリシャ哲学はもちろんのこと、カントも含めて哲学の勉強はほとんどまともにしていなかった。悪口を言う人はあいつは哲学者としての素養がない、デカルトもカントもまともに勉強していないと言いますが、だけどフッサールはちゃんと正統派の哲学を勉強しなかったからこそ、形而上学全体を覆すような「現象学」という学問を確立することができたと言えるかもしれない。彼の一番の弟子がハイデガーです。だから学問体系の中で哲学史を勉強していたら、フッサール現象学はもちろんのこと、ハイデガーの存在論も生まれなかったかもしれない。
何が言いたいかというと、フッサールが哲学を勉強していなかったとか、黒柳徹子が小学校のときに勉強していなかったとかいう話自体は、〈環境〉でもなんでもないということです。そんな〈環境〉や〈過去〉など存在していない。
イチローなんかは小さいときからバットを持っていたからあのような選手になったと、いずれ書かれるに決まっています。既に書かれている(笑)。
しかし、バットを持っている子供はイチロー以外にいくらでもいたではないですか。しかし、彼らは野球選手にならなかったから、野球のことに注目して過去が見られないだけの話です。
だから環境というものを意識のうちに入ってくるものとして考えてしまったら、もう身も蓋もなくて、あ、そうか、あのときのあれかというふうな仕方でしか見えてこないものが〈環境〉問題なんです。〈生まれ〉と〈育ち〉とかいう問題は、すべてでっち上げられた「問題」にすぎない。
だから機能=関数主義というのは忘れさられ、無視された環境、いわば時間性としての環境ではなく、いつも環境を意識(=現在)に取り込んでいって、どういう関数でもって自分を構成するか、構成されているかということを考え続けているわけだから、機能主義者の環境論、内部=外部論も、でっち上げられたものに過ぎない。考えられたり、意識したりすると逃れていくもの、それが人間にとっての〈環境〉〈過去〉だからです。それがフレーム問題の根源です。
さて、環境をどんどん意識化するということが、機能主義の野望の、どこにつながっていくかというと、これは〈データベース〉という問題です。
5)データベースと後悔
●〈後悔先に立たず〉を解消するためのデータベース
「後悔先に立たず」という格言がありますが、ニーチェは「かくあったは意志の歯ぎしり」と言っています。かくあったというときには意志は役に立たない。かくあった=過去というのは後悔の対象なんです。
データベースとは何か。情報社会のデータベースは何を目標にしているかというと、何でもいいからデータにしておけということなのです。この間、「NHKスペシャル」でアメリカのゲーム会社がゲーム開発のプロジェクトをやっている話が放映されていました。ゲームだけを専門にやる人が、まだ製品として出していないもののテスターになって、ゲームをするわけです。脳波をどれくらい刺激させるか、顔の表情の変化を見ていて、このゲームは売れないのではないか。興奮しつづけっぱなしのゲームも疲れて二度とやらないようだ。ゲームマーケティング会社の社長は一回のゲームを終えるのに、全体で50回ぐらい刺激=緊張を与えるのが一番いいという係数を出していました。脳波の緊張の山がゲーム全体が一回終わるまでに50回ぐらいあって、それに対応するリラックス場面と追い込まれる場面を交互に上手にもっていくのがよい、という結論を出していました。
それは全部、機能主義ですよね。どういうゲームのインプットを与えると頭の中でどんな変化が起こって、その変化のどんなモデルが快感モデルなのかを追求して売れるか売れないかを判断する。ゲーム会社の社長にとっては売れなかったという後悔をしないですますよう出来るだけデータを集めておくためにはどうすればよいか考えているわけです。
そうなると、データベースの構築で何が起こってくるかと言うと、「どんなデータでもいいから入れておけ」ということになってきます。
何が必要なのかは後でしかわからない。後でしかわからないことを先立たせるためには、何を入力するかを含めて入力値を差別化しては駄目だということです。
皆さん、名刺ってたくさんもらいますが、こんな奴とは絶対に二度と会わないなといって捨てた名刺が六ヵ月後に必要になったということはありませんか。そう考えたら、もらった名刺の人物評価は後にして、その評価を押し殺して、ちゃんと名前を書いて、いつ会った人なのか、どんな人なのか、記憶にしたがって書いて置くしかないんです。そこは気持ちを押し殺して入力機械になるしかない(笑)。
要不要の〈評価〉というのは、実は平均値なのです。だから情報が丸まってしまう。そこに人間、ヒューマニズムを入れては駄目なんです。データは絶対に入力では差別してはいけない。
しかしむろん大半の入力データは使われない。それに無駄なものを選別と消去なしに累積していけばデータは膨大になって使いづらくなってしまう。どこかで差別(選別)する必要が出てくる。
その差別と選別のために存在しているのが〈検索〉です。最近のコンピュータは入力で差別=評価しなくていいぐらいデータを無制限に入れることが出来るようになっています。しかし、ノートだとか日記帳だとかの紙の媒体にアナログで入力していたときにはこれ以上入れていったらとんでもないことになるということで、入力段階で差別するしかなかった。連絡帳なんかやがて書ききれなくなってぼろぼろになって字が読めなくなってしまいますから、途中で捨てていました。
ところがIT時代になって、CPUが高速になり、ハードディスクが安くなって、高性能なコンピュータ自体が安くなってきた。今、2テラとか3テラでも1万か2万円で買えるようになっている。テキストベースであれば、100年、データを、それも無駄なデータを入力し続けても大丈夫なデータベースができるようになっています。
そもそも〈情報〉とは、入力差別のない知識のことです。つまり評価を得ないで蓄積されるデータのことです。無駄な知識とはそれ自体知識ではありませんが、情報はもともと無駄な情報の集まりのことなのですから。この無駄(の価値)が、フレーム問題と関係していたわけです。
●なぜ〈検索〉なのか
それで〈検索〉というものが出てきた。〈検索〉とは何をやっているのかというと、無時間的、無選別的に蓄積された情報を(判断と評価が迫られる)〈現在〉という時点におけるに情報にまで持ち来たらすということです。データは入力で差別せずに検索で差別すればいい。どこから出てきたのか知らないけれども、そのとき自分の行動に役立つデータがそこに出てくることが検索ということになります。〈検索〉の機能は現前化=現在化ということです。
だから〈検索〉データベースは、データ量(HDD容量)だけの問題ではなく、時間(CPUの高速化)の問題でもあるのです。
検索には強大なサーバーと超高速のCPUが必要です。すごい量の情報があったとしても必要な情報を出してくるのに時間がかかってしまったら意味がないのですから。強大なサーバー、データベースと超高速のCPUが存在すれば、人間が一生の間に必要であるようなデータはいつでも現在の手元に持ち来たらすことが出来ます。それが後悔を先立たせるということです。それがデータベースの根源的な欲望です。
IBMのディープブルーという、ロシアのチェスの名士と戦うコンピューターがありましたが、このコンピューターに、過去のいろんな手を無制限に入れておいて、こう打てばこう勝った事例、こう負けた事例がある、というデータを、相手が一手ごと打つたびに、超高速で検索をかけて出力しているだけのことです(厳密にはもう少し高級なことをやっていますが)。
棋士の羽生名人はデータベースをすごく意識しているけれども、逆に羽生さんは何手もあるうちから選んでいるということではなくて、むしろやり始めると捨てるもの(考えなくてもいいもの)が何なのかという手が見えてくる、こう打つしかない手が見えてくるという言い方をしています。選択(事例主義)ではないということです。
データを拾うのではなく捨てると、言わば反データベース的なことを言ってるようにも見えますが、それでもそれは彼ふうの検索術を述べているのかもしれない。そうでないかもしれない。興味深いところです。
〈後悔〉を先立たせるデータベースというのは、フレーム問題における無視と忘却という問題を情報の膨大性(と超高速)というところでカバーしようとしている装置です。〈データベース〉とは機能主義(ファンクショナリズム)の極限にいます。ロボットもデータベースの一つです。アクチュエータ付きのデータベースがロボットです。だからロボットは忘却もしないし後悔もしない。
情報が膨大になるということはむしろ忘却の別表現だというのが機能主義の考えです。それは当然であって、インターネットの情報なんて知らないことの方が圧倒的に多いんだし、我々が日常使っているワード、エクセルだって使っていない機能のほうがはるかに多い。5千円のATOKでも、その機能をどれくらい使っているのかというと、10円あるかないかでしょ。ワードやエクセルなら1円分もない。それがデータベースの忘却と無意識です。ATOKは膨大な辞書類を内蔵しているからこそ、長文をすらすら書けるように単語変換してくれます。つまり人間性の有限性(空間的、時間的有限性)をATOKデータベースがクリアしているわけです。
膨大な情報量(と超高速CPU)という事実が、機能主義を機能主義的に見せないで、どんどん人間に近づいているかのように見せている一番大きな要因だと思います。心理学者たちもそこを錯覚しているのです。「属性」なんていい加減な概念を信じながら。
そういった膨大な情報量が〈現在〉という場面に持ちきたらされる理由は何なのかと言うと、それは自分が行動するときに出来るだけ無制約でいたいということにほかなりません。「必要な」情報が欲しいというのはそういうことです。あらゆる情報を勘案した上で1つの正当な(=後悔をしない)行動を決定する意思が存在することがもっとも幸せなことだという前提があるからです。
(まだまだ続く)
