「Twitter(現X)微分論(2) ― 「Twitter(現X)微分論(1) ― 機能主義、サイバネティクス、フレーム問題、データベース」https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat17/twitterx2.html からの続き

6)近代の問題

●近代的主体性=自由の問題 ― 人間性をいうのは差別主義、階級主義

機能主義というのは、民主主義が人間を出自で差別したらいけない、実力があればそのとおりに評価されるべきだという考え方と同じであるということを先ほど述べました。

人間というものは自分で意欲的に作ろうとしているところのそれが人間「である」、という考え方です。環境論も裏返しの意欲主義に他なりません。自分のビヘイビアは自分の主体に所属するという考え方です。一言でいうと主体性。

だから近代的な自由において、例えば、女性はこうあるべきだなどと言ったら差別だとかみつかれてしまいます(笑)。「女性だから」などと言ってはいけないのです。

近代的な自由の最大の限界(敵対物)は自分が自分の意志や選択なしに生まれたことの有限性(=出自)です。

何のことかと言うと、自分は主体的に生まれてきたのではなくて、親という先行者によって生まれた。親は近代的に言ったらノイズですよね(笑い)。親が禿げていたら子供も頭が禿げる(可能性が高い)。親の遺伝子に異常があれば自分の命が危ない。今のテクノロジーはそれまでデータベース化しようとしています。遺伝子も組み替えて癌化要素を取ってしまおうという話になってきます。最後は顔かたちの遺伝子情報もいじりたくなってくるでしょうね。下手な化粧に影響されずに。出来れば親なしで自分を自由に作りたかったというものです。

そういう意味で家族の存在と近代的自由とは対立するわけです。自分に家族があるということは親がいるというわけだから、親から自由になるということはありえない。出来れば家族なしですましたいというのが近代的な自由です。原理的に突っ込んでいくと必ずそこにぶち当たります。

家族は階級社会のつけ。天皇家を見ればわかるように階級というのはその子は生まれた家族によって決まる。家族という血統なしに持続性は存在しない。差別というのは大概が出自(受動性)の問題であり、出自の起源は大概が家族の問題です。

そういう家族から自由になるための最大の武器は、近代でいうと学歴主義(メリトクラシー)です。学歴主義って皆悪く言いますが、学歴主義に対立する概念は階級主義、家族主義です。

つまり日本では学歴主義が特に発達しているわけですが、東京大学さえ出れば、家が貧乏人であろうと、犯罪者の息子であろうと、社会的な差別からはとりあえず抜け出せるという話。

一方で、とりあえず自分たちの家柄だとか身分だとか、それなりに同じ雰囲気(メンバーシップ)をもっている人しかうちの学校には入れません、というのが家族主義です。だから頭がいい(メリット=能力がある)というのが基準ではない。これは特には、東京の"名門"私立学校に固有な選抜になります。


●マークシート試験、○×試験、選択問題こそが、近代的自由の源泉

学歴主義にフィットとする最適の選抜方法がマークシートです。これには親の痕跡はついていません。すくなくとも記述式だとか面接に比べれば、自分の出世(自分の主体性)にとってマークシート方式は決定的に自由。重要な選抜方式です。

そういう意味でいうと〈人間性〉(パーソナリティー)というものを選抜の対象にするということはすごく差別主義的です。その人の身なりだとかしゃべり方とか、"総合的な"能力だとかを言い始めたら、点数化するのがすごく難しくなるから、いきおい、その先生の好みが前面化するに決まっています。

そんなことになってしまったら何が起こってくるかというと、どうやってその人に好かれるようになるかということばかり考えるようになるでしょう。

1970年代に、ユネスコから日本の受験社会を見に来た視察官が、「たった1日の受験で人生が決まる」とは、日本はきわめておかしな国だと言って帰っていったという話がありますが、日本の学歴社会がすごく優れているのはたった1日の受験(=点数主義、○×ペーパー試験)で決まるからこそです。逆に優れていると言ってもよい。

三流の高校を出ていようと、公立の中学校を出ていようと、高校三年生のときに良い先生に出会うか、良い予備校に行くか、そうやってしゃにむに勉強したとすれば、それまでのマイナスの自分の過去を全部チャラにできるんです。これは竹内洋の言葉を借りれば、「敗者復活装置」としての受験制度です。

アメリカは実力至上主義だといっているけれども、大学に入るには、高校のときにボランティア活動をどのくらいしたか、親の推薦状がどのくらい書けているのか、高校の先生はどう評価しているのか、などなどいっぱいそういう"人間的なこと"を聞かれます。試験点数以外の家族主義的な履歴、あるいは長い時間の評価(極限は万世一系の天皇家評価)を問うわけです。それこそ差別主義で、1日で満塁逆転ホームランが打てる日本のマークシート方式こそウルトラ近代主義だと言ってよいのです。1日という短い時間だからこそ満塁逆転ホームランが打てるのです。

この点と関わって、Twitterの話になりますが、とんでもないものが出てきた。私もかなり早い時期からブログやmixiをやっていましたが、ブログやmixiをやり始めたころに比べて、僕はTwitterにはるかに衝撃を受けました。

人間主義的な差別は何で起こるのかと言うと、その人間の観察を長いスパンで見る場合、例えば民族差別だとか、国内のいろんな差別がありますが、そういう差別って、その人間がどこで生まれたか。どんな親元で育ったかということに密接に関わっています。民族なんて言い出したら何千年という歴史時間を背景に担っている個人という見方をしていることになります。例えばボランティア活動をどれくらいやったかとか、親の評価がどれくらい推薦状にちゃんと書けているのかということを基準にして大学の選抜が行われているとしたら、それまでずっと親の顔色を伺いながら育たないといけないわけですよね。ある程度長い時間を意識して自分の評価や表現を考えていかなければいけなくなります。

その意味でも日本の受験制度における「たった1日」という短い時間は、「自由と平等」に関わっていると言えます。差別は、"長い時間"が関与しているのです。深刻な差別ほどそうです。最近話題の「ソーシャル」メディア、Twitterは、この「たった1日」を、140文字にまで縮めたわけです。「1日」ではなくて、「いまどうしてる?」というように。

7)Twitterにおける自由と平等

●検索主義の解体 ― Googleの時代の終わり

Twitterというのは、人の自他にわたる長期の観察や省察、つまりデータベース主義(ストック主義)をやめようというメディアなわけです。つまりTwitterの入力の窓自体に「いまどうしている?」という問いかけが入っているわけです。140文字の文章は「いまどうしている?」ということに対する回答なわけです。

検索的なデータベースは入力と出力とを分けているため、長い時間のデータ累積(入力累積)の結果に過ぎません。入力と出力との間には長い時間差があり、しかもそれらの間には必然的な関係がありません。データベースに〈検索〉が必要なのは、データベースが、因果が消えるほどの"長い時間"の象徴だからです。

僕がTwitterするということは、今起きてそれをしているというしるしですから、Twitterというのは、その人が今、生きているのか死んでいるのかを告知する道具なんです。

僕がTwitterを始めると電話をかけてくる人がいます。今、かけても、Twitterをやってるから暇だろう、怒られることはないと思うからでしょう。

今メールを出したらきっと見てくれると思うからでしょう。メールも打たずにTwitterのDMでやり取りする人もいます。タイムライン上につぶやきが出てくるときは、その人は今DMを読んでくれるぞという間接的な表現になっているわけです。その人間が現在どういう状態か、現在という短い時間で切りとっていくとその人が今、食事をしていたり、あるところに行って、あることをしているなどといろんな像が見えてくるわけです。

時間と表現とを微分していくと、何が見えてくるかというと、どんどん身体表現に近くなっていく。身体は、平等なわけです。どんなエライ人も親から生まれてきたし、どんなエライ人も老いて死ぬ。

すごく有名な人も立派なことばかり考えているわけではなく、ご飯が美味しかったとか、家族と今遊んでいますとか、と書いている。

なるほど、この人も人間なんだな、と皆思い始めるわけです。短い時間で切り取っていけば、人間誰でもけっこう同じなんだと。

タイムスパンを長く取ると、〈主体〉とか〈人格〉とか〈人間性〉とか、また〈専門性〉とかみたいなものになっていって、この種の《人間》には近づきにくい、やめておこうということになりますが、タイムスパンを短くきり取っていくと様々な仕方でその人間との接点が生じてきます。つまり《人間》とは、元々「ある」ものではなくて、自己観察(自己省察)であれ、他者による観察であれ、その観察のタイムスパンによるものなのです。長い時間の観察なしには、《人間》は存在しない。

Twitterというメディアが表現しようとしているものは、その意味では反人間的なものです。〈現在〉という状態で微分していくと、賢い人も馬鹿な人も一緒になってコミュニケーションが出来るようになってくる。

Twitterは〈人間〉や〈専門性〉を超えているからこそ、交流が活発化するのです。この点が、コミュニケーションを〈人間〉で括るmixiやFacebookとの大きな違いです。

皆が小躍りするようにTwitterで時間をつぶすもう一つの理由は、グーグルの検索主義に対する反動です。インターネット利用の活性化の鍵は〈検索〉の利便性の向上だと皆思っていた。

検索というのは、なぜ情報活用としてよくないのかと言うと、情報が帰属する時間性が見えづらいということがあるからです。つまり、この情報は結構面白そうだけれども、10年も前のことだ。そう知ってがっかりすることがある。もちろん時間は書いてあるが、その時間がビビットなものなのかどうかということの判断がすごくしづらい。

それは情報が新鮮でない(古くさい)から良くないということではなくて、検索の現在と情報の時間性が遠すぎて、利用者はその間を埋める作業を強いられざるを得ないからです。検索が役に立った、というのは、その時間差を埋める能力が使い手にあった、ということです。

つまり、情報の評価が必要になる。この評価は、専門的な評価になります。なぜかと言えば、データベース=ストック情報(古い、時間をかけて形成された情報)の評価は、それ自体、ストックの持ち主=専門家でないとできないからです。

検索情報は、データベースに向かう以上は、その向かう人自体がデーターベース=専門家でなければ使いこなすのに難しい。


●Twitterにおけるストックの時間性 ― 専門性とは入力と出力の間に時間差があること

Wikipediaを活用する人は、メディアに関する知識をもっていないと駄目です。知らない人がWikipediaを見て知った気になるのがいちばんこわい。情報の専門性のストック度が見えない。つまりそれがどのくらいの時間の蓄積によってできあがっているものかということが見えてこない。したがって利用する主体自体に情報の取捨選択の専門性が要求される。

専門性の時間性(ストック度=信頼性)があるかどうかということ。つまり入力と出力との間に差があることを〈専門性〉と言います。専門家というのは、安易に発言したりはしません。あることを学び始めてから、自分の考えをつくりあげるまでにある一定の時間をかけて、これなら自信があるという段階まで自分の意見の発表は避けています。「馬鹿」とはその時間差のない者のことを言うのです。馬鹿な課長は、土日に読んだノウハウ本やドラッカーの話をすぐに月曜日の朝礼で話してしまう。まさに馬鹿なわけです(笑)。

僕が今この講演レジュメに書いたことについても、僕が今考えつつあることとかなり差があるわけです。もったいないですよね、ホントにいま考えていることをしゃべるのは(笑)。 今、不用意にしゃべるといろいろけちがつくかもしれない。だからまだまだ検証が必要というように専門家はoutputに慎重になる。入力と出力との間に5年も10年も時間をかけたものは皆、情報として信用できる度合いが高いわけです。したがって専門性というのは時間性なんです。どれぐらいそこに時間が蓄積しているかというストック度のことをそれは言うのです。

ブログやmixiでも学者の論文でも時間差度というものがつきまといます。mixiというのは日記であるにもかかわらず、Twitterのように、今、カレー食べていて美味しい、なんて書きません。
1日を終えて、自宅に帰ってすべてを終えて寝るときに、今日食べたカレーは美味しかったなというふうに反省して書くわけですよね。しかし、昼飯にカレーを食べた後、夜、美味しいディナーを食べたら、カレーの話は捨ててディナーの話を書くのがmixiやブログです。発信する側が情報を選択、評価してしまっているわけです。

ところがTwitterというものには、そんな長い時間で丸められる〈選択〉はない。昼飯を食べていて美味しければ、「美味しい」と書くわけです。夜、ディナーがおいしかったら、また「美味しい」と書き続けるわけです。すると、そこに味覚の専門性は関係なくて、美味しいと思えばそう書けばいいじゃないかというのがTwitterです。

〈反省〉ではなく、〈現在〉がもっていることの迫力(リアリティ)が前面化しているのがTwitterなのです。あいつ今、カレーを食っているから、俺も食べたくなった、カレー食べよう、という現在の時間の共有性がツイートに説得力を持たせています。


●ハイパーリンクの課題 ― 強力な学びの主体がないと機能しない

テッド・ネルソンのハイパーリンクというのは、60年代に出された概念ですが、現在のインターネット利用の思想的な源になっています。

それは学ぶ順番(学び方)というのは自分が興味を感じる、自分が判るということを基にしてたどっていくことが、その人にとっていちばんいい学び方であって、学校教育体系のように小学校はまずやさしくて、中学校は中級で、高校大学で難しいことを学んでいくというような学ぶ順序を他者に強制される筋合いはないというものです。頂上(目標)は同じであったにしても、学ぶ道筋は100人いれば100あるはずです。

今、皆さんがインターネット上でハイパーリンクをたどっているのと同じことをテッド・ネルソンは今からずっと前に〈ハイパーテキスト〉という概念で提案していたわけです。自分の気持ちの赴くままにリンクをたどっていって、自分の知識をブラッシュアップしていく。

この魅力的な考え方の何が問題なのか。学び方の自由というのは、すごく魅力的だけど、学ぶ順序を自ら切り開いていくというのは、一所懸命学ぶぞというかなりの意欲が前提にされないとやっていられないわけです。
たとえば、「いつでもどこでも」学べるe-ラーニングというものが存在している。e-ラーニングは「いつでもどこでも」の上にさらに「どんなふうにでも」「自分の基礎能力と進度に応じて」が付け加わっているわけです。ハイパーリンクのシステム化なわけです。

しかし「いつでもどこでも」「どんなふうにでも」「自分の基礎能力と進度に応じて」というように"自由な"分、e-ラーニングは、強い学習意欲、禁欲的なまでの学ぶ意欲を要求するわけです。なぜか? 自由な分、「いつでもどこでも」の時空は、「いつでもどこでも」他のことをなし得る時空でもあるからです。

勉強をする理由、しない理由をその都度強く自覚していないと「いつでもどこでも」の学びはうまくいかないのです。

〈学校〉は、たしかに窮屈なものですが、まさに校門と塀と教室に囲まれてこそ、学べる〈形式〉を整えている。なんとなく学ぶ気にさせる仕掛けが存在している。みんなが学ぶから学ぶというように。〈学校〉の"不自由"はそれなりに意味を持っているのです。〈学校〉の"不自由"は、〈学ぶ主体〉なしでも学べることと引き替えの不自由でもあるわけです。やる気のない者を前提にするのが、〈学校教育〉なのだから。

結局、ハイパーリンク主義も検索主義も、強力な〈学ぶ主体〉というものを前提にしているわけです。しかし、〈学ぶ主体〉なんて実は架空の存在。人は、普通は勉強などしたくないのだから(笑)。"関心"や"意欲"を超えていやいや勉強するからこそ、知見が広まり、世界も広がるのです。学校の〈先生〉というのはやる気のない者をその気にさせるから〈先生〉。やる気のある者になら、誰でも教えることが出来ます。
だから、E-ラーニングもハイパーリンクも、いくら活性化しても、〈学校〉と〈先生〉の存在しない〈教育〉(そして〈学習〉)なんてあり得ないわけです。

Twitterは、その意味で、検索=学ぶ主体の意欲と選択なしで、ネットを活用できるはじめてのメディアだった、とひとまず言えます。


7)Twitterにおける検索主義の解消

●Twitterの5つの特徴

1)Twitterはデータベース=ストック情報ではない
2)単にフローではなく、〈現在〉を共有している
3) 現在の共有=inputとoutputとが同時に存在する
4) 情報の受発信の先に、書き手と読者とがいつも同時に存在している
5) この書き手と読者とは、いつも断片化し、ストック化に抗う

以上のように、重なり合うようにして、その特徴は5点あります。順に説明していきます。

Twitterはストック情報ではない。つまりTwitterは〈データベース〉ではない。「いまどうしている」というのは、単にフローではなく、〈現在〉を共有している。〈現在〉を分かち合うというのはインプットとアウトプットとが同時に存在しているということです。

情報の先に、いつも同時に書き手(input)と読者(output)とが存在している。これがTwitterが、時間差で成り立つデータベースと違うところ。Twitterの反データベース主義なわけです。同時に反Google的、反検索主義でもあるわけです。つまりツイートする人間とそれを読む人間とがタイムラインの上にいつも同時に存在しているということです。

ストックで一度貯まったものに対して波長を合わせるのは大変難しい。私がつぶやいたら、その中身がわからない難しいことをつぶやいたとしても、あいつは今の時間起きているということだけでさえも実感できるから、別にツイートの中身はある意味どうでもいい。

恋人同士のやりとりがたわいのない時間(現在)の共有であるように、Twitterのつぶやきも、実際は現在の共有なのです。時間自体が意味なのです。〈今〉を伝えるからこそTwitterは短文でなければならない。140文字で充分なわけです。長くなると、今が過ぎ去ってしまうからです。Twitterが災害情報に強いのも、その派生態に過ぎない。

恋人同志の会話が端(はた)から見ていてくだらなくても成り立つのは、それが友達同士の"意味を問う"会話と違って、〈現在〉の共有、つまり身体を共有しているからです。

"有名人"がツイートしている時に無名の我々がそれに対してなんぼのもんじゃいと書くと、急に怒ってくる人がいるわけです。しかし、毎回毎回、現在を共有する短文を書くことによって何か書き続けるとどこかで波長が合う人がでてくるわけです。

宇宙の果てで迷子になっていた「ハヤブサ」も信号を送り続けてやっと見つかったでしょ。そうやって現在RT(リツイート)やり続けていると"有名人"と会話できるチャンスが出来て、"有名人"と会話が出来ると突然フォロワーがいっぱい増える。自分の発言を聞いてくれる人がいっぱい増えるチャンスになってくる。それがどうして起こったかというとインプットとアウトプットが同時だからです。〈現在〉というのが、最大の共通語なのです。

これが、長い時間をかけて出来上がった著作の作家と読者という関係になるとそうはいかない。読んだ感想を著者の送りつけても、たいていの場合、自分の浅知恵を著者に見ぬかれて相手にされない。それはストックの勝負になるからです。負けるに決まっている。テーマ主義の2ちゃんねるでもそう。テーマ主義では専門家が勝つに決まっている。ストック(〈現在〉の否定)は格差の象徴なのです。しかし、〈現在〉という波長は、限りなく平等で自由。どこにでも結びつき、どこにでも拡散していく。

そういう意味では、Twitterはチャットと近い。チャットと違うのは、テーマの拡散という事態です。Twitterに於ける書き手と読者はいつもタイムラインによって断片化してストックにあらがう。なぜかというと、ずっとタイムラインは秒刻みで微分されているから、ずっと流れていくわけです。現在というのは流れますから。僕は、それをタイムラインは「水洗便所」だと言ってきたわけです(笑)。

チャットも同じように〈現在〉に関わっていますよね。確かに相手と向き合っているから、その点ではTwitterと似ている。

その意味で言えば、電話もそうです。チャットは、テキスト化された電話にすぎない。しかし両者に共通するのは、特定の他者との現在だということです。
Twitterでは500人、1000人単位で微分化された現在を共有できる。その分、Twitterの〈現在〉は、特定の主題による特定の他者とのコミュニケーションのきつさを免れている。ずっと緊迫した現在を追い続けないといけないですよね、チャットの現在は。

その緊張はテーマの特定性、他者の特性性にあるわけです。だから緊張感を伴っているわけです。テーマに集中しなければならない。テーマに沿って相手の気持ちも斟酌する必要がある。トイレに行きたいけれども、トイレに行くことも許可を取ったりしないといけない。ところがタイムラインではトイレに行っちゃったらもうその人もその話題もどこに行ったかわからなくなります。〈現在〉のタイムラインからは消える。ずっと流されながら生成する現在を共有するという非常にゆるい、弛緩する場面と緊張する場面とが交互に表われるというのがタイムラインという単純ではあるけれど不思議な装置によって保持されている。

要するに、タイムラインは、人物の特定化、話題の特定化に抗う。テーマ主義は、ストックの文化。必ず専門家が勝つ、必ず素人は負けるというのがストックの文化でしたが(そもそも"素人"は長い文章が書けない、読めない)、タイムラインでは自由な"交流"が日常化している。

さて、どんな人間も現在という瞬間の軸で微分すればすべての人間に共通する要素を持ち始めます。有名人だと知らずにタイムラインの流れに任せて反応することがいくらでも出来る。その人の実績だとか業績だとかを知らないままでやれる。あとで大変なことになるかもしれないが(笑)、その理由は長文の名手である専門家(知識人)というのは、結論を先送りして出し惜しみしているだけなわけです。長文を書いておけば、馬鹿な人からは絶対に非難を受けない(笑)。

馬鹿は長文を読めないし、どこに結論があるかもわからない(笑)。それで最後は著者の年齢はいくつだとかどこの大学をでたかとか、何をやっていた人だとか、何冊本を出している人かなどでごまかしてしまう。最後の著者略歴しか読まない。しかし、そういうやり方で逃げ切れないのがTwitterで、どんな長い文章を書くのが好きな人も140文字で書かなきゃいけないから、どんな馬鹿でも有名な人の結論を瞬時に見ることができます。結論というものは、いつでも短いし、単純なものです。だから誰でも判断できる。

ゲーテは「行動する者は良心がない」と言いましたが、それに準じて言えば、「結論だけを見るものは良心がない」わけです。

だから下克上が起こってしまって、すごく賢くなったような気になってしまう。誰でも賛成反対が言えるということによって、Twitterにおける微分とか短文というのは、たった1日の受験の平等性と同じだということです。今、何をしているか、という話を有名人であれ、ストックの権威であれ、関係なく交わることが出来る。それがTwitter革命です。

Facebookが旧態依然なのは、最初から交流の単位が(ストックとしての)〈人間〉だからです。すでに人間が、人間の評価が平均化されている。だからFacebookではエライ人はエライ人でしかない。なんたってデフォルトで〈学歴〉を聞いてくるのですから(笑)。〈人間〉は、〈人間〉という長い時間の単位で括ると、逆に多様な交流ができないのです。その人はその人でしかないという再認しかできない。これでは〈ソーシャル〉とは言えない。〈ソーシャル〉とは異質な他者との交流のことを言います。mixiもFacebookも同種の者しか集まらない。厳密にはそれらはソーシャルメディアではないのです。

(まだまだ続く)

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