「Twitter(現X)微分論(4) ― 「オンライン自己」、あるいはTwitter(現X)の〈現在〉の限界とポストモダン」https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat40/-twitterx11-twitterx.html からの続き

12)〈新人〉の発掘としての学校教育 ― ハイデガーのエネルゲイア論と大学

さて、そろそろ時間がなくなってきました(笑)。ここには、大学の先生も高校の先生も来られているし、筑波大の土井隆義の若者論も出してきたのですから、これまでの議論を集約しながら〈教育〉とは何かについて、最後に私の考えをまとめておきたいと思います。

私は、教育とは〈新人〉の産出・発見だと思っています。ハイデガーはこれを「目撃(アオゲンブリック)」(Augenblick)と呼んでいました。〈学校教育〉が〈生涯学習〉と異なるのは(臨教審思想に反して)、〈学校教育〉は若者の教育であり、次世代(ながーい時間)を形成する人材の形成だということです。

新卒人材の「即戦力」論というのは間違っているわけです。経産省も、そして文科省さえも「即戦力」論は、中途採用者の概念だと最近やっと言い始めるようになってきました。新卒者に「即戦力」を求める企業は、使い捨て人材しかいない貧相な企業でしかないのです。

さて、〈若者〉が育つのは、慣習・風習・伝統の中においてのこと。偏見・先入見もその中に加えていいのかもしれない。いずれにしても、「若い」というのは、〈先にあるもの〉にまずは支配されているということです。身近で言えば〈家族〉や〈地域〉に、学生を含めた子どもたちは先行されています。

「大人になる」というのは、「イノセントであること」を脱してその"影響"を何らかの仕方でとらえ返せる(引き受け直せる)ということですから、こういった先行性を有した受動的な主体(主体ならざる主体)は、決して生涯学習マーケットのような〈顧客〉や〈消費者〉ではないのです。〈顧客〉、あるいは〈消費者〉ではない受講者(被教育者)を持つ教育体系を〈学校教育〉というわけです。

さて、彼らは、それら先行するものから直接に"影響"を受けるわけではなく、〈校門〉と〈塀〉に囲まれた《学校》の中で学びます。

校門や塀は、単に教室の中に生徒・学生たちを閉じ込めるためにあるわけではなく(その機能もきわめて大切なものですが)、広大なキャンパスを確保することによって社会との遊動(シュピール)空間(ラオム)(Spielraum)― ご存じのようにこの「遊動空間Spielraum」はハイデガーのキーワードです ― を形成しています。

それは慣習・風習・伝統・偏見・先入見などからの"隙間(リヒトゥング)Lichtung"なのです。それは〈教室〉の中ではみんな平等だという学校教育の基本思想を形成している"隙間"なわけです。ジェネラルエデュケーション(国語・算数・理科・社会・英語)→リベラルアーツ(シェークスピアやアリストテレスなど)の軸は、近代がテクノロジー(その根源は、ギリシャ的なテクネー)における〈新人〉を発掘するための装置です。

それはどういうことか。

人間だけが、生の威力に押し出されるように時間を過去から未来へと追随させる ― 機能主義的、心理主義的な述語収集は、いつもこのリニアな時系列にそって動いているわけですが、ハイデガーはそれを「抑止(エント)解除(ネームング)Entnehmung」的(ハイデガー全集29-30巻『形而上学の根本概念』)と言ってもいました ― のではなくて、その時間を溜めること、その時間を解釈(=再解釈)することができる。先行する時間を曲げるこのプロセスが〈学校教育〉の意味です。

〈新人〉というのは、既に在るもの(慣習・風習・伝統・偏見・先入見、そして親やふるさとなど)を何度も何度も解釈し続けて、世の中=世俗(自然時間)に登場してきます。既に在るものをもう一度既に在るものの時系列へと落とし直すわけです。世俗(先行する第一の多数決)から世俗(第二の多数決)への展開は、結果だけ見るといつも多数決の機能主義的、心理主義的勝利のように見えますが、実は第二の多数決は、最大の抵抗と矛盾を含んでいます。¬¬¬

●新人賞は矛盾した作品 ― 「作家は処女作へ収斂する」の意味について

"新しい"人は認められる必要がある。「認められる」というのは、何らかの権威によってでしかないわけです。権威とはそれ自体が多数決の結果であるわけですから、認められた新人はすでに新人ではない。

〈新人賞〉はその意味で「不可能なものの可能性Möglichkeit der Unmöglichkeit」(『存在と時間』62節)なわけです。認める人も、一瞬(アオゲンブリック)Augenblick、新人「である」必要がある、認められる人も、一瞬Augenblick、伝統「である」というプロセスが、"新人発掘" "新人登場"という出来事(エアアイクニス)Ereignis、ハイデガーの言う「目撃(アオゲンブリック)Augenblick」であるわけです。

『存在と時間』における「瞬間(アオゲンブリック)の本質」とは、「瞬時(クルツェツァイト)kurze Zeit」のことではなく「希少性(ゼルテンハイト)Seltenheit」にあるのです(ハイデガー全集第29/30巻『形而上学の根本概念』70節)。

作家が「処女作へと収斂する」のは、この、未だ(ノッホ)ない(ニヒト)こと(noch-nicht)と既(インマー)に(シ)ある(ョン)こと(immer-schon)との二つの振幅の最大値が〈新人賞作品〉だからです。最大の抵抗に遭った作品が新人賞作品です。

この最大の抵抗を経ることをハイデガーは存在(存在論的差異)の耐(アオス)忍(トラーク)(Austrag)とも呼んでいました(「形而上学の存在-神-論的体制」1957年講義)。ドイツ語Austrag(動詞はaustragen)とは、「耐えること」の他にも「決着」「臨月まで持ち堪える」という意味もあります(直訳するとaus外(アオス)へ、tragen運ぶ(トラーゲン)こと)。

新人賞とは耐えたことの決着、臨月まで持ち堪えたことの決着(切迫)、つまり新人の誕生を意味する訳です。まさにドイツ語のAustragの多義性がそのまま活きる出来事です。

そもそもすべての作品は新人賞作品。〈作品(ヴェルク)Werk〉とは、ギリシャ語で「仕事」「成果」「制作物」を意味する「エルゴンἔργον」のことであり、「エルゴン」とは、en+ergon=エネルゲイアのこと(ハイデガー全集第6-2巻『ニーチェ』「存在の歴史としての形而上学」、同第33巻『アリストテレス形而上学』参照のこと)。そしてエルゴンἔργονとは、テロスτέλος(目的(テロス)=終わり(テロス))の内に終息してあることだったのです。

その意味で、〈新人〉とは、終わりを始める人です。掛け値のない、支持者が一人もいない極小の評価が(伝統の)多数決の中から新しい伝統の端緒として一気にメジャー化するからです。それは終息に向かってメジャー化するわけです。新人登場のプロセスは、したがって「因果」でも「相関」でもない、ましてや「論理的」でもない非機能主義的な出来事(エアアイクニス)Ereignisです。『存在と時間』のハイデガーは、「因果」でも「相関」でもない、ましてや「論理的」でもない出来事の発生を時熟(ツァイテ)する(ィゲン)zeitigenと言っていました(『存在と時間』65節)。新人賞は時熟(ツァイテ)する(ィゲン)zeitigenのです。zeitigenとは

「終わりが始まる」こと(終わり=始まりの現在完了)、つまりエネルゲイアそのものです。

新人賞作家評価にはいつも「才能があった」「出るべくして出た」ともっともそうに理屈が付きますが、それはいつも支持(選考)を得た後になってからのことです。結果論にすぎない。初期・中期・後期という著者の作品解釈も、デビュー作の隠喩に過ぎない。国木田独歩が言ったように、どんな曲がった道でも、後から見れば、一本道でしかない。つまり本来の"曲がった時間"とは、その「一本道」との断絶の中で曲がっているのです。機能主義的な述語化に抗うのが、この"曲がった時間"なのです。

このパワーは、大衆的な規模で言えば、キャンパスの「遊動空間Spielraum」の中からしか出てこない。そもそも〈学校〉(英語で「スクールschool」、ドイツ語で「シューレSchule」、フランス語で「エコールécole」など)の語源は、「暇(スコレーσχολή)」であったわけです。「遊動」(あるいは「暇」)とは、実は〈ストック〉 ― 私は本当はここでギリシャ語の〈ウーシアοὐσία〉のことを想定して〈ストック〉と言っているだけなのですが ― のことです。無駄に大きな図書館。無駄に長いアプローチ。大小いくつもの大きさの教室。建物よりも数倍、数十倍も無駄に広い大きな空地(=キャンパス)。これらは、世俗の時間を曲げるパワーなわけです。

大地震が起こり、原発がメルトダウンし、多くの人々が路頭にさまよっても、うれしそうな顔をして地震や津波の「専門知識」を語り、原子力の「専門知識」を語る「遊動」学者の登場。飛行機が落ちても、戦争が起こっても、デフレでもインフレでも、そういった「遊動」学者がテレビや新聞に登場する。これはたしかに不謹慎なことなのですが、大学がキャンパスに守られていることの証でもあります。大学のパワーそのもの(エネルゲイア)を意味しています。

〈新人〉が矛盾した存在であるように、ストックの"有用性"(あるいは機能主義的なoutputやoutcome)も矛盾した存在なわけです。〈大学〉人はいつもいい意味でも悪い意味でも〈新人〉のように清められています。それは、機能主義的な述語を決して吐かない。「産学協同」的な「大学の社会化」は反って、〈社会〉も〈大学〉をも狭くするだけのこと。それは単に"原子力ムラ"を作っただけのことなのです。"原子力ムラ"は、不純な新人だったわけです。

●「できない学生」ほど大学へ行くべきだ

大学は、〈新人〉を発掘・発見する学校教育最後の牙城です。これは決して、大学全入時代以前の大学ノスタルジアではありません。「できない学生」=全入学生ほど、短い時間の機能主義的、ビヘイビアリズム的な「必要」と「反応」で生きている。何を言っても「何の役に立つの?」と聞いてくる。これはサイバネティクス的な自動ドアの制御装置のように動物的な生死反応に近い。「勉強ができない」からと言って、この子どもたちを大学の外に追いやったら、彼らは一生、生活=生死に追われることになる。機能主義者のように述語ばかりを拾い集めて生きることになる。〈新人〉になる契機を永遠に失うことになる。現在の学校教育における〈キャリア教育〉は、述語人材作りに過ぎないわけです。

「できる学生」は意味のない受験勉強で、多少の遊動経験があります。「意味のない」とは、近親者(家族、地域の人間環境、学校の教員やクラスメートなどとの人間環境など)との関係を超えた"非"人間的な基準=偏差値に初めて出くわす「遊動」のことです。目の前の人間を殴って勝てばいい、目の前の人間を納得させればいい、目の前の人間から賞賛されればいい、目の前の人間を大切にすればいいといった関係を超える遊動性を「できる学生」は受験勉強で経験するわけです。受験勉強は、小さな自室の孤独で内閉的な経験のように見えますが、そこで彼らは、ある種の〈社会〉 ― 非人間的な圧力 ― に出会っている。日本の学校教育が効いているのは(残念ながら)受験勉強のこの場面だけです。かつては、暗くて怖い「鎮守の森」や「トイレ」がその体験を担ってきたのですが、今では夜さえも明るい。

受験を経ないで ― 入試があったとしても、人間関係重視のAO入試なわけですから ― 社会に出る「できない学生」は、人間関係に過剰に引きずられ、動物のように必要と経験で生きている。だから使い捨て人材になる可能性も高くなる。必要や経験は別の必要や経験によっていつも代替され続けるからです。高校までの教員も、大概の場合、仕事で=必要で「知識」を扱っているだけですが、大学の教員は寝ても覚めても勉強している(徐々にそんな教員は減ってきていますが)。だから、純粋な知識、遊動としての知識に一度は出会うべきなのです。「できない学生」ほど大学に行くべきだと私は思っています。「大学の大衆化」とは、大学が大衆化するのではなくて、大衆(そんなものが存在するとして)が大学化することです。

●終わりを見た人としての大学教授

そもそも、〈大学教授〉とは、〈終わり〉を「見た」(gesehen haben)教員です。ハイデガーはその思考をこそ、ギリシャ的な「ノエイン」(思考)としていたわけです。だからこそ、「○○入門」などの入門書=〈始まり〉の書を書ける人は、名誉教授級の先生たちでしかない。

昔の大学では、新入生たち初年次の「概論」講座(哲学概論、社会学概論、心理学概論などの)はその学部や専攻を代表する教授が担当していました。「概論教授」とは「名誉教授」=「始まり-終わりの教授」を意味していたのです。名誉教授の概論講座こそが「リメディアル」授業の本質です。

最近は新書・文庫の大衆化とともに、大学カリキュラムのこの見識が崩壊し、勉強が足りない"先生"たちか、あやしげな「名誉」教授たちが新書啓蒙書と概論講座を担当していますが、それはギリシャ的なアルケー(始まり)、そしてその意味での〈ウーシアοὐσία〉の軽視でもあります。「専門」の穴を掘り始めた30代、40代の「才気あふれる」教授たちに概論講座なんて担当できるはずがないのです。

「終わりを見た」人とは、〈始まり〉に自由に遡行できる人のことなのですから、それは、どんな躓きでも自由に解放できる人のことです。それを「教える人」と言うのです。昨年亡くなった吉本(吉本隆明)が、大学を引退した名誉教授が地域の小学校に算数を教えに行ったら、数学嫌いなんていなくなるだろうと言っていたことがあります。その通りなわけです。

なぜか。

どんな人間も専門家(ストックの持ち主)として生まれてくるのではない。どんな専門家でもはじめからテクニカルタームを使っていたわけではない。〈どこか〉で、その道に入った。〈どこか〉でその人も「できない学生」だったわけです。その〈どこか〉の〈限界=境(ペラス)〉に立ち続けることのできる人を"専門家"と言います(この「専門家」という言葉は、私は好きではないのですが、とりあえず)。

2012年に亡くなった吉本隆明はこの〈限界(ペラス)〉としての〈どこか〉を言語の〈像〉と呼んでいました。ストックとは、〈限界=境(ペラス)〉に立ち続けるパワー(エネルゲイア)のことです。アリストテレスが〈ウーシア(実体)〉を定義して、点、線、面のことだと言ったのは、それらが限界=境界の時間性を意味していたからです。

点は線の絶対的な始まりである。のみならず、また線がその両端において限りないもの、あるいは通常言われているように無際限に延長しうるものと考えられる限り、点は線のエレメントをなしている。同様に線は面のエレメントであり、面は立体のエレメントである。実際これらの限界はそれが限界づけるところのものの原理(Prinzip)である。それはちょうど、一がたとえば百番目の一として限界であるとともに、百全体のエレメントでもあるのと同じことなのである。(ヘーゲル『大論理学』第一巻「存在」論・岩波版上巻146頁)

これは、いつ読んでも見事なヘーゲルのアリストテレス「ウーシア」論の解釈です。「限界はそれが限界付けるところのもの」の「原理(プリンツィープ)」(始まりPrinzip)であり、エレメントは単なる「要素」ではなく、「一がたとえば百番目の一として限界であるとともに、百全体のエレメントでもある」ように「全体」でもあるのです(ここからアリストテレスの時間論=魂論まではほんのあと一歩ですが、ここでは控えておきます)。ヘーゲル研究者たちはしたがってこのエレメントを「境位」と訳したりもしています。苦肉の日本語訳です(笑)。いずれにしても〈限界〉は、単なる端(はし)ではなくて、そのものの本体(ウーシア)なのです。

中途半端な人工言語を駆使してこの〈限界=境界〉を忘れる「体系」は、もっともこのアルケーの思考に遠い。そしてこのアルケーこそが〈新人賞〉の振幅(シュヴング)(Schwung)、キャンパスの「遊動(シュピール)Spiel」というものです。どんな〈体系〉よりも、このアルケーの振幅の方がはるかに射程が広いわけです。だからこそどんな「できない学生」でも受け入れることができる。中途半端な教授たちばかりが学生の"基礎学力"を選びたがる。それは、終わりにも始まりにもまだ至っていない人たちだからです。

しかし、キャンパスの大学教授こそがいつも新人賞の論文を書き続ける人でなければならない。専門家のストックとは、体系化(諸述語の定義集)によって忘れられがちなアルケーへの遡行力のことであり、その都度自分を更新し続けるパワーのことをいいます。そもそも若者は、みんな「できない学生」でしかないのだから。


●ハイデガーのエネルゲイア解釈と新人論

ヘーゲルの(「意識の経験の学」の)「想記(エアインネルング)Erinnerung」は一回限りの想記であり、従って「時間を曲げる」と言っても「円環」して一巡すると〈論理〉に転換し、〈体系〉に内面化(Erinnerung)しますが、ハイデガーの「始源(アンファング)への想記(Erinnerung an den Anfang)」(ハイデガー全集第51巻『根本諸概念』19節)は、その都度自らが〈新人〉として生まれ変わるような想起であるわけです。
何回でも新人賞作品を書き続けることのできる人、これがハイデガーの言う先駆的決意性die vorlaufende Entschlossenheit(先駆的(フォアラオフェンデ)な封鎖(エント)解除(シュロッセン)性(ハイト)=先駆的決意性)が意味したことです。「反復(ヴィーダーホールング)Wiederholungとは、身についた熟練(フェルティ)技能(ッヒカイト)Fertigkeitを働かせることではなく、そのつどの目撃(アオゲンブリック)Augenblickに発して、新たなしかるべき封鎖(エント)解除(シュルス)Entschlußに発して行動すること」(ハイデガー全集第18巻『アリストテレス哲学の根本概念』17節)です。

なぜ「封鎖解除」は、先駆的vorlaufendな時間性なのか? それは始まりが終わり「である」ような将来性(ツークンフト)(Zukunft)の新人賞にこそ捧げられた時間性だからです。「処女作に収斂する」というのは先駆的な時間性、可能性を可能性として開示する時間性 ― ハイデガーに色濃く影響を受けた九鬼周造はそれを「いき」と呼んだのです ― だったからです。

ハイデガーは「走り出そうとしている人」について次のように言っていました。

我々に現れているのは、静止している人ではなくて、今にも走り出そうとしている人である。彼は走り出そうとしている。余すところなく走り出そうとしている。後は「走れ!」の呼び声(ルーフ)Rufだけでよい。われわれがそう言えるのは、そう見えているからであり、そう留保なく見て取れる(アンゼーエン)ansehenからだ。...そのとき、彼のできる(フェアメーゲン)vermögenことのすべては現前(アン)して(ヴェー)いる(ゼント)anwesend。彼は走る。なされずに残されているものなど何も残っていないように彼は走る。走りながら彼はそのできることVermögenを完遂する。できることの完遂Ausführung des Vermögensとは、しかしながら、できることの除去や消滅ではなく(できることVermögenが別のものになることではなく:芦田註)、できることそれ自体がそこへ向かって切迫するものへと自ら導き出すことなのである。
(ハイデガー全集第33巻『アリストテレス形而上学』22節)

木田元には「大げさ」にしか見えない、この切迫=封鎖解除の瞬間(アオゲンブリック)Augenblickが、〈新人〉目撃(アオゲンブリック)Augenblickの瞬間であり、目撃Augenblickは、ここでのansehenのan、anwesenのanに関わっています。ハイデガーによればそれらはAhnen(予感(アー)する(ネン))のanを含意しています。いずれも現象学の現象のansehen(見て取り(アンゼーエン))です。

フッサールの現象概念を、近代的な〈様相〉概念(可能性、必然性、そしてまた現実性などの)に解体してしまうと、この「走り出そうとしている人」の豊穣性が見えない。現象学的なAhnen(予感(アーネン)する)はそれ自体でエネルゲイアなのです。Vermögen(できること)の〈可能性〉とは、もはや近代的思考ではすり切れてしまっている〈可能性〉なのです。

...「可能的」とか「可能性」という私たちの使う語は、〈論理学Logik〉と〈形而上学Metaphysik〉との支配下においては、「現実性」との区別においてのみ思索されているにすぎず、すなわち、存在をactus(現実性(アクトゥス))とpotentia(可能性(ポテンティア))と捉える一つの限定された ― 形而上学的な ― 解釈にもとづいて考えられているにすぎない。actusとpotentiaとのこの区別は、existentia(現実(エクシステ)存在(ンティア))とessentia(本質(エッセンティア))との区別と同じものと見なされている。私が「可能的なものの静かな力stille Kraft des Möglichen」について語るとき、私(ハイデガー)は、単に表象されたpossibilitas(( )可能性(ポッシビリタース))に属するpossibile(可能(ポッ)な(シ)もの(ビレ))のことを考えているのではなく、またexistentia(現実存在)というactus(現実性)のessentia(本質)としてのpotentia(可能性)のことを考えているのでもない。私はそれについて存在(ザイン・)そのもの(ゼルプスト)Sein selbstのことを考えているのです。(ハイデガー全集第9巻『道標』「ヒューマニズム書簡」)

そしてその「可能的なものの静かな力stille Kraft des Möglichen」、Ahnenの可能性(メーゲン)こそが、エネルゲイアとしての「走りだそうとしている人」だったのです(※)。
※この「可能的なものの静かな力stille Kraft des Möglichen」がカント的な「可能性の条件」論 ― 「経験(●●)一般の可能性(●●●)の(●)条件(●●)は、同時に経験(●●)の(●)対象(●●)の(●)可能性(●●●)の(●)条件(●●)であるBedingungen der Möglichkeit der Erfahrung überhaupt sind zugleich Bedingungen der Möglichkeit der Gegenstände der Erfahrung」(『純粋理性批判』A版158頁、B版197頁) ― つまり超越論的差異=存在論的差異論と無関係でないのは明らかなこと。不即不離の差異だからこそ、「静かな」差異だったわけだ。その意味で言えば、「走りだそうとする人」とは、存在論的差異の動(ベベークト)性(ハイト)Bewegtheit(『存在と時間』72節)のことを意味しているが、ここではこの問題に立ち入ることはできない。

「呼び声(ルーフ)Ruf」の「封鎖(エント)解除(シュルス)Entschluß」(決断(エントシュルス))についても、ハイデガーは「非力(ニヒティッヒ)さ(カイト) Nichtigkeit」、「非性(ニヒトハイト)の存在論的(オントローギィッシェ)根源(ウーアシュプルング)ontologische Ursprung der Nichtheit」として触れていました(『存在と時間』58節 ― この58節は『存在と時間』のピークの一つです)。ハイデガーの良心は「非力nichtig」な「責め(シュルデ)ある(ィッヒ)存在(ザイン) Schludigsein」(同前)に関わる良心、つまり「静かな」良心であり、その「非力」さは、ヘーゲル的な回帰の円環を「封鎖解除」する原理(アルケー)、非力なアルケーであったということ。「非力」である分、〈状況Situation〉に開かれた良心だったわけです。

このハイデガーの言う〈状況〉(『存在と時間』60節)とは、〈新人賞〉誕生という、因果を超えた事態(エアアイクニス)Ereignis、レヴィナス、ナンシー的に言うと「晒され」「分割(パル)((ター)分有(ジュ))された」出来事のことです。それを〈目撃Augenblick〉する〈状況Situation〉のこと。「非力」さが、時間を曲げる原理(アルケー)、あるいはそれ自体曲がった原理(アルケー)、「非力な根拠(nichtiger Grund)」(『存在と時間』58節)だった。

芥川賞の新人作家も大学教授も、そして学生達もくすぶり続けて(●●●●●●●)いる(●●)、いぶかしい(●●●●●)(fremdな)人(●)たち(●●)です(「いぶかしさ」については、ハイデガー全集第51巻「根本諸概念」18節を参照のこと)。ながーい時間の遊動と暇、言い換えれば報われない時間の長さが三者を特質付けています。その三者が一気に接点をもつ瞬間を〈状況〉と言うわけです。三者が、評価者-被評価者に入り乱れて「おぬしやるな」という「いき」な瞬間(先駆的な封鎖解除の時間)が〈目撃〉の瞬間です。つまり、新人賞の〈現在(アンヴェーゼン)Anwesen〉は実績(過去)から来るのではない。新人賞は孤独に、そして一挙に「切迫」して将来(ツーコ)する(メン)zukommenわけです。「走り出そうとしている人」のように。いまだない実績である未来Zukunftからやって来るから ―「フレーム問題」の〈フレーム〉の予感(アーネン)ahnenように ― その時間は曲がっているのです。

〈才能〉とは目撃=発見された後の因果論にすぎません。「生い立ち」などというのは、現在の評価(極悪非道の犯罪者のそれも含めて)の創作物でしかない。言い換えれば"自分の現在"を肯定しているだけの貧弱な過去思考にすぎないのです。

多数決主義の機能主義には〈新人〉は発見できない。〈新人〉とはそれ自体ですべて「である」ようにして可能性Vermögenなのです。機能主義はアリストテレスが論難したメガラ派のように「在るものは在る、無いものは無い」と言っているだけです ― ハイデガー全集第33巻『アリストテレス形而上学』講義におけるハイデガーのメガラ派批判は、機能主義との全面的な対決を意識しているわけです(ハイデガーは「哲学の終わりと思惟の課題」において、サイバネティクスにおいて哲学は終わる、としていた)。しかし「無こそが在るとしたらどうだろうか」とハイデガーは、アリストテレスを反芻しながらライプニッツの充足根拠律を反転させました。まさに無が在る場処が大学であったわけです。大学のエネルゲイア(=エネルギー)とは、〈新人〉のエネルゲイアです。

〈大学〉とは、誰でもが入れるところとして、そして誰でもが〈新人〉を目撃できるところとして、そして誰でもが新人「である」ところとして開放された場所です。それは校門と塀とに囲まれることによって〈社会〉 ― 「在るものは在る、無いものは無い」としか言えない機能主義的な〈社会〉 ― から隔離されているからこそ誰にでも開放されているのです。


●最後に― 働いていない人でも忙しい窮乏の時代

大学の社会的な開放は全入状況の加速やキャリア教育の必要性などとともに声高に叫ばれていますが、それ以上にソーシャルメディアの台頭の影響も色濃く受けています。中学生でも小学生でもソーシャルメディアを活用する時代になった、それ以上に授業の中核においてさえそれらを使うようになってきている。

かつては、携帯電話が、〈家族〉(のリビングルーム)を越えて、子供たちの個室を一挙に個人間交流へと解放しましたが、いまでは大学を含めた学校自体が、〈校門〉と〈塀〉を越えて社会化しつつあります。剥き出しの個人が、剥き出しの社会に接続しようとしている。学生起業ブームさえ起こっている。

文科省の言う「知識基盤型社会」は、むしろ〈学校〉が生涯学習化し、文科省の「基盤」自体を崩壊させつつあると言ってもよいかもしれない。

しかし剥き出しの個人とは何か、剥き出しの個人とは誰か。

〈家族〉からも〈学校〉からも孤立して個人化する分、極端に肥大した内面(極端に肥大した心理主義)と、極端に肥大した外面(極端に肥大した行動主義)が前面化します。両極の接点がソーシャルメディアです。
かつて丸山眞男は、極端な自由主義は極端な専制主義(管理主義)を招くと言ったことがあります(『現代政治の思想と行動』)。内面監視なしに個人を特定できる要素が何一つないことになれば、自分は誰か、あいつは何者かという猜疑的な問いばかりが前面化して、誰に対しても、自分に対してさえも落ち着く暇がなくなるからです。しかしこの「落ち着く暇がなくなる」ことの意味は、もはや丸山が考えたこととは別のフェーズに至っています。

ソーシャルメディアに囲まれた今日では、タレントを含めた少数の著名人以外には体験しなかった他者評価が日常化しています。他者(からの評価)など意識しなかった人たちが、さかんに自分のささいな日常を暴露して(失業中であってさえも、夜中であっても)忙しくしている。忙しくすることによって社会参加しているような気分に浸っている。自分の窮状を棚上げするかのように。ブログ時代="自己表現"時代と違ってそれが秒刻みで存在しているのが「ソーシャル」の今日的段階です。働いても働いても楽にならない忙しい窮状ではなくて、働かなくても、何もしていなくても忙しい窮状が今日の窮状の本質です。無名(無力)の人が無名のままで忙しい社会、これがソーシャルメディアが招来する社会です。

一言で言うと、忙しい退屈に充ちた社会。大震災も大津波も原発のメルトダウンも「傘がない」(井上陽水)ことと等価になる社会がソーシャルメディア社会の意味です。〈現在〉の意味が異常に拡張した社会なわけです。反動物性(異常に拡大した現在)の極点が、逆に動物のような短い(=忙しい)生死反応に簡単に入れ替わる(その逆もある)社会と言い換えても良いかもしれない。

「走り出そうとしている人」がそれ自体で走ることの現在(アンヴェーセン)(Anwesen)だというような現前性Anwesenheitがそこにはありません。退屈(ランゲヴァイレ)(Langeweile)とは本来はな(ラ)が(ン)ー(ゲ-)い(ヴァ)時間(イレ)(lange-weile)の「切迫」=「現在」であることがそこでは忘れられている。「走り出そうとする人」の切迫した静止 ― 「自制の中で開かれたもの」Aufbehaltenes im Ansichhalten(ハイデガー全集第33巻『アリストテレス形而上学』19節)― は「深い(ティーフェ)退屈(ランゲヴァイレ)tiefe Langeweile」(同前第29/30巻『形而上学の根本概念』30節)と同じなのです。特にツイッターの窮乏の忙しさに対比すれば。

ハイデガー研究者の川原栄峰は、この「深い退屈」を、良寛の「生涯身を立つるに懶(ものう)く、騰々(とうとう)天真に任す」の「懶(ものう)し」にあたるのではないか、とこっそり解釈していましたが(『ハイデガーの哲学と日本』一四六頁)、それを評価することはいまの僕の力を超えています。たしかに「懶(ものう)し」ひとの集まりが大学でありますが(笑)。信心の薄い私は、この良寛の「懶(ものう)し」を、「人はながーい時間をかけてやっと新人になる」「最後の時点でなれるものが新人」だと言う以外にさしあたり表現できません。年季をかけてやっと新人「である」こと、年季というものは慣れること、熟練・熟達することの逆なのだということ。それが「天真に任せること」の「懶(ものう)し」=「良心の非力(ニヒティッヒ)」であります。

しかしながら、「走り出そうとする人」のな(ラ)が(ン)ー(グ-)い(ヴァ)時間(イレ)(lang-weile)のこの忘却において、大学は「大衆化」し、「インセンティブディバイド」(苅谷剛彦) ― 「走り出そう」という「インセンティブ」の格差(ディバイド) ― は拡大しているわけです。ハイデガーは、そのとき「...危険のあるところ、救うものもまた育つWo aber Gefahr ist, wächst das Rettende auch.」(パトモス)とヘルダーリンの言葉を引いていました。僕にはそんな大家(たいか)のような語り方は許されていません。さてどうするか...。何をしなければならないのか...。随所にその解答をちりばめたつもりですが、まだまだ足りない。しかしそろそろ時間になりました(笑)。次回の講義に回したいと思います(えーという声)。今日は長い時間お付き合い頂きありがとうございました(拍手)。

(了)

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