「Twitter(現X)微分論(3) ― 近代と学歴主義の問題、あるいは〈短い時間〉における自由と平等について」https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat40/-twitterx6.html からの続き

8)1990年前後から始まったオンライン自己現象

●ネット上の人間関係でしか自己を形成できない人たちの群れ

さて、僕は「オンライン自己」という言葉を先の日経BPnetの記事で造りましたが、その意味は、ネット上の人間関係に自他関係を縛られている人たち、あるいはその自他関係を、自己とか他者を議論するときに(無意識にも)モデルにしている人たちのことを言います。1990年前後、バブルが終わったあたりから始まりますが、中曽根臨教審が1980年代後半から、これまでの教育の転換をしようということで、1991年に今の全入時代の幕開け施策である「大学大綱化」が始まります。

カリキュラム全体の目標が設定された全124単位以上を4年間で取得すれば、中のカリキュラム(科目、科目配置)は自由につくってよい、必修科目だとか選択科目は自由に組んでよろしいという施策です。

たとえば、僕の世代は大学入っても体育は必修だったし、語学も必修だったし、バレーボールとかマラソンとかやらされて、俺は大学に来てまで何をやっているんだと思っていましたが、それを絶対にやらなければならなかった。日本国憲法も勉強しなければいけなかった。あるいは文学部に入っても自然科学で何単位とか、工学部に入ろうと文系の勉強を必修でやらなければいけなかった。

でも、91年以降、そんな窮屈な制度は制度としてはなくなった。大学によっては整序だった必修カリキュラム体系は絶対必要だといって柔軟化しない大学もいまだにありますが(それの方がまとも)、大学によってはそれを全部取っ払って、カリキュラムを変え始めたのが91年からです。今の30代前半くらいまでの人はそういう教育に切り替わった大学を経た人たちです。今では10単位から30単位しか必修科目のない大学が多い。特に偏差値の低い私学はそんな大学だらけです。安物の(ろくな料理しか出てこない)バイキングレストランメニューに、大学カリキュラムが堕しているわけです。

こうして中学校・高校の進路指導の変化が出てくるんです。このあたりで中高の進路指導において偏差値業者テストを学校でやってはいけないということになった。教員がその試験教室にいてもいけないということを文科省が通達で出しはじめた(これは法政大学の児美川孝一郎が指摘しています)。

偏差値に関係なくどの大学でも入れるようになっていることも含めて、それまでは教員はお前のこの偏差値だったらこの大学しかいけないよ、もし行きたいんだったらもう少し勉強しろよと言っていたんですが、それを(表向きは)言ってはいけないことになった。

進路は生徒が決める、教員は「指導者」ではなくて、「サポーター」に過ぎない。教員は「上から目線」の指導者であってはいけないというのがこの90年代頭からはじまったのです。僕は馬鹿だけども大学行きたいんだといったら、そんな馬鹿な(笑い)と教員は言ってはいけないことになった。お前は専門学校でこういうことをやったほうがいいよとは絶対言ってはいけなくなった。(お前が望むなら)「じゃあ大学受けてみるか」と言わなければいけなくなった。このあたりから「学び合い」教育だとか、ワークショップスタイルの授業が始まった。「学び」という変な自動詞も出てきた(たぶんリクルートあたりが流行らせた)。
〈個性教育〉とか〈自主性教育〉とか〈学び合い〉が重要だという人たちは、知識をたくさんもっている人間が知識を持たない人間に対して"外的に"注入しようとするのは権力主義だとかファシズムだとか言うんです。大事な事は「学び合い」だと言う。でも、何を、(講演者である)僕はここに来ているあなたたち(あなたたち聴衆)から今日学ぶんですか(笑)。学ぶためにお金払ってきているんだから、こんな寒い日に。そこでさあ、皆さん一緒に「学び合い」ましょうなんて僕が言ったら、アホかと言われるでしょう(笑い)。そういう問題があるんです。


●ハイパーメリトクラシー教育

そういう教育の傾向は、今、厚生労働省や経産省や総務省や文科省はハイパーメリットクラシー教育=「力」教育(人間力、課題発見・解決能力、社会人基礎力、コミュニケーション能力)が必要であると考えていて、大学、短大に次ぐ第3番目の高等教育機関をつくろうと考えています。専門教養主義ではなくて、キャリア教育に特化する新しい大学を作る。

その教育目標は、僕は〈力〉能力(りょくのうりょく)と言っていますが、〈人間力〉とか〈コミュニケーション能力〉です。これは90年代初めから始まった自主性、個性教育、多様性教育というもので、今の大学生は選択科目がすごく多くて、「哲学」なんていう最も大学らしい科目はなくて「人生論」だとかの科目になっています。数学も「数と生活」、英文学部も「英語コミュニケーション学部」と変わっています。やっていることはシェイクスピアやエリオットですが、英語コミュニケーション学部とつければ、英語のできない者もやってみようかなという気になります(笑)。英語コミュニケーション学部という名がついたために、「自己表現力技法」なんていう科目を置かざるをえなくなり、街のNPOや年齢不詳のあやしげな実務家講師が大学に入って来て授業やっている。大学というストックの牙城が、そういったフロー科目に取り込まれるようになってきている。キャリア教育における実務家講師のキャンパス侵入も同じ事態です。


9)消費社会とオンライン自己

●消費社会の深化はストック人材をますます不要にしていく

なんでそうなってきたのかというと、1つは消費社会です。サービス産業化がどんどん進んでいって、第三次産業が全産業内の70%にまで迫る。個人消費もGDPの一番大きな要素になってきて1億総営業マン化が起こってきます。市場が飽和した高度消費社会だと、〈作る〉ことよりも〈売る〉ことに力点がかかってくる。専門学校がいくら建築の技術者の優秀な人材を出したって、ミサワホームも大成建設でさえも、〈作る〉奴はいらない、〈売る〉人間を一人でも出してくれと言い始めるわけです。

そうすると、知識や技術は、売ることに対する貢献度合においては、作ることに対する貢献度合いに比べればはるかに少ないんです。車をよく売る営業マンは車好きだと売れるかというと売れないです。トヨタは徹底的にそう考えています。ホンダはわりと車好きを採りますけれどもトヨタは車好きは絶対に採らない。なぜかと言うと自分の好きな車しか乗ろうとしないから。車好きは「なんでこんなの買うのか」と思いながら仕事するに違いない。顔に表れる。他社の車の良いところまで自分のショールームでコンコンとしゃべってほめている(笑)。

一番売れない車を売るのが営業マンの仕事だから、そうすると、1億総営業マン化社会の教育って何が必要なのかというと、知識や技術をきちんと蓄える、体系的に勉強するということになってこないわけです。

体系的に物が売れるのなら、学者と経営者は同じでなければいけない。そんなことあるわけがない(笑)。マーケターとかプランナーなんて一番いかがわしい職種です。

じゃあ、マーケターとかプランナーって何やってるのかと言うと、社長の決断を後押ししているだけです(それも重要なのですが)。根拠のないところで行われるのが〈決断〉ですから、マーケターとかプランナーって占い師と同じなわけです。一般に社長や政治家は占い師を好きな人が多いのですが、〈決断〉はいつでも無根拠の淵=孤独の淵に立たされるからです。おしゃべり上手なマーケターとかプランナーは接待役なわけです。
そうなると客の顔色を見ながら、何を言えば喜ぶかと言うことに対するサーチ力が必要になってきます。営業マンの鉄則の一つに、「客がほめるものをほめろ」と言ったりもします。僕には絶対そんな仕事は合わない。「お前の好みは間違っている」と言うに決まっている(笑)。

「買う」とは知識や技術で買うのではなくて〈心理〉で買う。心理の基準は〈納得〉ですから納得となれば馬鹿も賢い人も平等です。納得しないと終わり、納得すれば終わりなのですから。〈納得〉には、正しい納得も間違っている納得も存在しない。〈納得〉は〈評価〉ではない。むしろお金を出すことに対する決断のための心理主義な訳です。僕が、どんなふうにこんこんと原稿用紙3000枚の内容を費やしてしゃべっても、相手が「わかりません」と言われたらもう終わりなんだから(笑)。

〈納得〉ということを基準にした社会では学校教育体系はどんどん廃れていきます。つまり体系的に知識や技術を積み上げてちゃんとしたストック人材を作らなければいけないという方向に動かない。


10)IT社会(高度情報化社会)と「オンライン自己」

●人間関係重視の社会

人間関係が重視されて消費社会が飽和している高度な消費社会では、そのひとつが人間関係論に走っていくという傾向と、もう一つはIT技術が進んできて24時間の連絡体制が人間をしばるようになってくるということ。ポケベル自体は1960年頃からありましたけれども、それがサラリーマンが日常的に使い始めるのが1980年後半からで、中曽根臨教審が自主性、個性、多様性と言いはじめた時期と重なっています。
「ポケベルが鳴らなくて」という緒方拳が演じた切ないドラマをおぼえていますか。このドラマは1993年のものですが、ポケベルで男女関係が影響されることも起こってくる。

24時間、人間の個人同士が連絡を取れる体制って何なのかというと、24時間覚醒していなければいけないということです。24時間、意識を張り巡らしている必要がある。〈内面〉とは、本来は、昼(覚醒)と夜(沈黙)があっての出来事です。ところが今はそうではない。

24時間の覚醒とは、電気の時代であって、電気の時代は、サーバーの時代によって成熟を迎えましたが、サーバーの起源は電気冷蔵庫です。電気冷蔵庫が家庭に入り込んではじめて24時間付きっぱなしの電気時代が始まった。今はそれがサーバーなわけです。

たとえば、メールを送って10分以内に返信がないと彼氏が怒るとか彼女が怒るということが起こってくると、〈内面〉がすごく肥大してきます。私は今、何をしなければいけないのかということを24時間ずっと自分に問い詰める体制ができてくる。

その上、情報利用が、90年代後半からプル型からプッシュ型に変わっていくでしょ。これは検索主義への最初の批判でした。プッシュ型って反検索主義なんです。放っておいても手元に「お前、反応しろ、反応しろ、返事しろ、返事しろ」という要求が潜在的に存在している。メールやスケジュールさえもがプッシュ配信される。検索は意志を前提しますが、何もしたくなければそのままでいられる。しかしプッシュ配信は、受動的なままで反応を強要される。そこでは、無反応も反応のあり方の一つになってしまう。〈内面〉を強要されるわけです。

mixiが人気があったのも、ホーム画面に自分の「マイミク」が何をやっているかがいつも現前化しているわけです。手元に現前化するというのが、mixiがすごく便利に思えた瞬間でした。これがRSSになっていくわけです。自分がいつも必要として見ているサイトとかブログをRSSリーダーに登録しておけば、ブックマーク検索をしなくても誰がどこで何をしたかというニュースが自分の手元に現前化される。これはGoogle的な検索を中和する方法です。検索というのがまずいぞということに対してmixiも手を打ったわけだし、RSSがすごく重要になったということです。それは何かというと、先ほど機能主義で問題にした忘れることとか、無意識であることを許さない社会になったということです。常にプッシュがあって常にそれに対して(無回答も含めた)回答を出し続けなきゃいけないということになる。

車のショールームでずーっと相手の顔色を伺い続ける、あるいは人格的なふれあいで相手に気に入られようとする。人は自動ドアのフィードバック装置のように、進入者、あるいは他者に敏感になっていく。そういった〈関係function〉に敏感になってく。そういった〈人間〉を作っていく場面がIT技術の進展と共に強固なものになっていく。まさにマクルーハンの言うように「メディアはメッセージ」なわけです。リオタールのように、「技術の強化は現実の強化でもある」と言ってもいい。
 

●高卒求人数の10分の一の激減と〈主体〉の時代

もう一つの理由は、サービス社会(消費社会)は、製造業を海外に追いやることになること、あるいは外国人労働者に任せること。IT社会が中途半端に複雑な仕事を全部コンピュータ化したこと。このことによって、大学大綱化の翌年1992年には167,000件存在していた高卒求人数(高卒求人数のピーク)が2003年には19,800件(落ち込みのピーク)に落ち込み、2010年でもくしくも19,800件と落ち込みのピークを再現しています。

学校教育がハイパーメリトクラシー(コミュニケーション能力論などの)に走るのは、高卒新卒求人が激減、その分、大学全入が高卒者を進学者(言わば疑似進学者)として吸収しているからです。専門学校も偏差値の低い大学も、法政大学の児美川孝一郎の言うように「潜在的失業者のプール」でしかない。この疑似進学者達は、体系的な教育を嫌う。その分、評価の曖昧な意欲、個性教育に、学校側も文科省も走るわけです。

だから、馬鹿でも主体や選択する主体を形成せざるを得ない社会になる。これまで馬鹿はけっこう平和に、選択なしで生きていけたのですが(笑)、街を歩いている馬鹿でも今自分は何をすべきかをたえず気にしている。馬鹿でも就職の試験で〈自己分析〉テストをやっているでしょ。馬鹿って自己がないやつのことなのに(笑)。馬鹿が自己内面調査して何になりますか(笑)。ますますバカになる(笑)。

まだ実体を形成し終えていない者を馬鹿というのだから(そもそもその意味では若者はみんな馬鹿です)、そんなところで、わざとらしい心理試験を受けて、〈私〉はこの方に「向いている」とか、そちらには「向いていない」という結論を出して動いたら、とんでもないことになってしまう。これから〈自己〉を形成していく人を〈若者〉と言うのだから。

もともと〈学校教育〉体制における生徒や学生というのは、〈主体〉がないから学校に入るわけで、自己分析テストを受けてどうするのですか。アリストテレスは誰か、何かというテストを受けることはあっても、自己分析テストを受ける資格はまだないのです。僕の教育の経験だとどんな若い学生でもどうにでもなります。向きや不向きなんて、教育の不成熟の結果にすぎない。偏差値40で入ってきたって偏差値70以上の大卒の就職企業に就職させることも出来る。18才の選択だとか、大学3年生の夏の選択なんていうことは何のあてにもならない。そのことに実体など無い。

今の大学は学生を「お客様」と言っています。「お客様」というのは消費者ということでしょ。〈主体〉として認めてしまっている。だけど生徒とか学生というのは〈主体〉ではない。どれだけストックを持たせるかという学校側の主体性がいつも問われているのが学校という場所なんです。お医者さんも「患者様」と言うんでしたっけ。世も末だと思います(笑)。笑顔が素敵でベッドサイドマナーが優れているのに、病気に関しては誤診と誤治療を繰り返す医者ってヘンでしょ。もはや「先生」ではない。


●小さな共同体における他者の肥大

そういう問題があって、そういう意味でコミュニケーション能力が全盛になっていくというのは、人間のビヘイビアにすべて意味があると考えてしまう行動主義的な強迫神経症なんです。あの人はああいう目線で私をみているけれども、ひょっとしたら私を嫌っているんではないかとかどんな仕草も有意味と見なして、過剰に恐怖を感じる。ソーシャルメディア現象と言ってもよい。

今、若い人たちはメールとかでそうしたことを絶えず体験しているわけです。あの子はいくらメールを送っても返信をくれないから仲間から排除しょうなどと、わずか2,3人の付き合いであっても、ファシズムみたいな関係になってきて、〈内面〉がすごく肥大していてずっと友達に気を使い続けている。その心理的に肥大した仲間の外に出てしまうと、あの秋葉原の殺人事件のようなことが起こる。その外はもはや内面を持たない人間なわけです。

2,3人だけど、すごく大きく世界大に内面が肥大化しているから、外が共同性としてみえない。外の者は人間でないみたいになる。人間がいないのではなくて、2,3人だけで十分人間的に疲れている状態なのです。24時間やりとりすれば絶対にそうなるに決まっています。寝る寸前まで電話で、しかもソフトバンクでは24時間無料だから、受話器をオンにした状態でベットの中で寝る。お互いがサーバー状態になってしまっている。iPadminiとは、ベッドの中で使うコンピュータなのです。あれなら寝落ちの顔に落ちてきても痛くない(笑)。

情報ツールが拡大したにもかかわらず、リアルな交友関係が広がらなかったのは、24時間の「関係(function)」が内面を異常に肥大化させたからです。内面の肥大化で携帯ツールの24時間化は2人3人の身近な友人関係にとどまったにしても、過剰な配慮や気遣いを脅迫的に要求する。たった2人3人であっても世界大の情報処理力を必要とする。だから外から見ていると2人3人に好かれるぐらいたいしたことはないではないかと思うけれども、2、3人が24時間内面を管理しているとすごくそれに力を取られてしまう。かつては恋人同士のきめこまやかな心遣いにとどまっていたものが今ではn個の友人関係に拡大していて、〈恋愛〉も〈セックス〉も面倒くさいと思う若者がいっぱい出てきているわけです。

なぜかと言うと、それは恋愛を嫌がっているのではなくて、毎日毎晩同性同士、友達同士で恋愛みたいな関係になってしまっているから。わざわざ男女関係に入るまでもない。1日でも中断すると、友達同士でも「冷たいじゃないの」と言われる。それで何の役にもたたない話をずっとしている。役に立つかどうかではなく、ずーっと話し続けているというのが大切なのです。だから家族や地域を超えた少数の共同体が他者の存在を極端に排除する。それは他者が不在なのではなく、内部にすごく巨大な他者を抱えてしまっているからです。


●内面の肥大とTwitter現象

Twitterの微分機能はそれに対して携帯でもないし、電話でもないし、チャットでもない新しい次元を切り開いたわけです。これは内面を現在で微分しているという意味ではすごく強化しているけれども、タイムラインがどんどん内面を解体していきますから、携帯電話やメールのようなきつい感じにはなっていかない。

飽きず疲れず時間を忘れるのがTwitterの本分で、僕なんか何回自分の駅を通りすぎたことか(笑)。もう着いちゃったみたいな。〈現在〉という時間はむしろ時間を無化するのです。

新幹線の大阪・東京ぐらいだったら苦もなく時間を過ごせるというのがTwitterの面白さで、内面の現在を共有することということは、少数の他者との関係を知ることであったにもかかわらず、Twitterでは多数の他者との現在を簡単に増大させることが出来る。よくフォロワーを増やすには大変だと言う人がいますけれども、フォローを増やせば、フォロワーは増えます。フォローを2000人もすれば500人ぐらいはフォロワーは絶対に出てきます。メディアに登場したことのない無名の人が500人も読者をもつなんて、これまでの歴史にはなかったでしょう(笑)。そういう意味でいうとすごい革命的なツールで、そこがmixiとは違うところです。mixiで500人集めようとすれば大変でしょ。僕なんかいろんな作戦をたてて足跡を追跡しまくりました。1年かけて500名がやっとです。しかし、Twitterはただクリックすればいいだけだからどうということはない。1週間で1000名くらいは集められます。フォローすればフォロワーは増える。

このフォロー者とフォロワーとの非対称性が、内面のきつさを緩和しているのです。

ミクシィもFacebookも、"承認"が必要ですから、互報性の原理が機能しています。必ず相手にしてよね、というものです。どちらも村落的で奴隷的なのです。それがTwitterの他者関係にはない。

現在と他者を微分によって拡大し、3千人も4千人もの現在のつぶやきを見ていけば、かならず自分と話題が共通するツイートがタイムライン上に出てきます。だから、どんなに性格の曲がった人間であったって、ある種の社会性を獲得することができるわけ。どんなにストックのない人でも社会性を獲得できる。しかもその社会性は著名人の日常と接触することによって著名人とカレーライスの話をすることも出来るし、僕なんか(有名人ではないのですが)牛丼のときしか話題に入ってこない人がいるわけです(笑)。そこじゃないだろうと思っていても(笑)、牛丼が好きな人とはそういうチャンネルになっていきます。すると牛丼喰っている人から「趣味が合う」ということになります(まさに合っているわけです)。そういう人がやっている哲学とは何だろうかと思い始める。すると牛丼しか関心を持っていなかった人がハイデガーなんて言い始める(笑)。これが〈ソーシャル〉です。

〈ソーシャル〉とはセグメントから離れているということです。セグメントマーケティングはTwitterで完全に解体しました。

逆にバカでも〈ソーシャル〉化することによって、何のストックもない若者の軽薄な起業家志向が高まっています。〈ソーシャル〉とはインフレした社会でもあるわけです。大学のキャンパスに、まともな大学院を経ない実務家講師が侵入拡大しているのも同じ事態です。だから、これは実は〈進歩〉でも何でもない。

●現在を微分することの他者化機能

Twitterで現在が何千人もの人によって微分されていくというのは、そこに世界大の他者が入り込んでいて、これまでに長いストックにおいてしか他者と出会えなかったのが、過去や未来も包含して現在の微分の中に並列的に展開するということですから、ニーチェの「かくあったは意志の歯ぎしり」というものの最大の防止策になるわけです。

Twitterはデータベースならざるデータベースで、検索する必要もないのにどんどんプッシュで入ってきて、プッシュで入ってきてうっとうしいと思ったら目をつぶっおけば嫌な奴は流れていく。僕は"タイムラインは水洗便所"と言っています。要するに、「タイムライン」は極限のプッシュ通知なのです。流れないという人はフォロー数が少ない人です。100人とか200人ぐらいだったらやはり変な奴は目立ちます。それでは「タイムライン」の革命性は見えてこない。100人や200人だと、「短文の限界」と「人間の限界」が露呈するだけです。

 僕がツイートし始めるとすぐに外すやつがいるんです。芦田がツイートし始めたって(笑)。そんな人のフォロー数を除いてみると、100名以下か200名とか300名なんです。200名とか300名というのは、〈現在〉の微分度が少ないということですから、〈現在〉という時間の拡散度が少なくて、ストック性だけが目立つことになる。〈現在〉を1000人とか2000人で微分してしまえば、ストック性は解体するわけです。どんどん解体していくから何やろうとどうってことないんですけれども、100人とか50人だとそれはmixiです。特定の情報(ストック、あるいはテーマ主義)を検索的に取りに行こうとする。それならブログでやれば良いではないですか。あるいは著作(の読者として)でやればいい。

Twitterは過去と未来を忘れることの出来る究極のメディアなわけです。つまりストックなしでも生きていける希望の原理がTwitterで、馬鹿も頭が良いと言われている人も平等だという意味で、だから皆が面白がっている。


11)ツイッターの〈現在〉の限界とポストモダン

●現在の微分は、身体と死の微分

しかし果たしてそうかという問題があって、〈現在〉はどこまでいったって〈現在〉に過ぎない。たとえば、HDDの容量が二テラ、三テラでも一万円前後で買えるようになって、一ヶ月間くらいのテレビ番組を全部録画できるようになってきた。だけど、そのことと全部見ることとは関係ない。結局見ている番組はそんなに変わらない。なぜか。一日の時間自体(24時間)は長くならないからです。記録の時間の拡大は、知識・知見の拡大にはならない。カント的な直観の時間の問題です。相対論では解決しない。

ツイッターの〈現在〉というのは、〈現在〉を細かく微分することによって、過去と未来とをラディカルに忘却する装置になっているわけです。ちょうど大容量HDDレコーダーが、〈現在〉の出来事を多チャンネル=多番組において微分し、全時間を支配したかのように錯覚させるのと同じ事です。

そこで、ラディカルに忘れ去られているものは、人間が死ぬこと、です。

なぜかと言うと、人間の死というのは、現在においてこそ不在であるような唯一の出来事だからです。死が現前化するということは自分がいなくなることです。死は現前化に一番抗っているわけです。他人が死ぬのを見た人はいるけれども、自分が死ぬところを見た人はいないんだから。

丹波哲郎は、「あの世を見てきた」といつも言っていたけれども、もしそれが本当だとすると、あの人は死にそこなったわけであって、生きているわけで、本当に死んだら何もしゃべれない。あの世から帰ってきた人を死んだ人とは言わない。現に彼はもう死んでこの世にいない。言うなら今こそそう言うべきなのに。

「人間が死ぬ」ということはツイッターの微分がどんなに進んでも現前化できない出来事です。死のデータベースをいくら巨大化し、高速化しても、それは一つの〈現在〉に留まる。しかも現前化できないのに絶対にやってくるものです。つまり「死ねない」「できない」と言うことも"できない"(ブランショの言う、オルフェウスの眼差しにおける「二重の不在」)。完結しているのに未決であるような出来事が人間が死ぬということであって、ハイデガーは「つね(イン)に(マー)すで(ショ)に(ーン)(immer schon)、未だ(ノッホ)ない(ニヒト)(noch nicht)」ことと言っていました。人間が死ぬということは人間の全体を形成しているけれども、つねにすでにいまだないこと、いまだないということがつねにすでに存在しているというふうに形成している。未決がいつも完結的に存在しているというふうに言っていました。この言葉、「つねにすでに(immer schon)、未だない(noch nicht)」は、ハイデガーの主著『存在と時間』の隠れたキーワードです。

彼のこのモデルは、アリストテレスのエネルゲイア解釈から来ています(※)。周知のように『存在と時間』の書かれた1920年代は、ハイデガーのアリストテレス講義が集中する時代でもありました。
アリストテレスのエネルゲイア論はノエイン(νοειν)論=思考論であり、ノエインのモデルは〈見る(テオレイン)〉ことです。『存在と時間』でもさかんにSicht(視(ジヒト))という単語が使われ、配(ウム)視(ジヒト)(Umsicht)、顧(リュック)視(ジヒト)(Rücksicht)は言わずもがな、「現存在(ダーザイン)の視(ジヒト)(die Sicht des Daseins)」、「存在論的(オントローギッシェ)透視性(ドゥルヒジヒティッヒカイト)(ontologische Durchsichtigkeit)」とまで言われています(ここではあまり詳しく触れませんが)。〈見る〉ということは見終えているということであるにもかかわらず継続している。つまりアリストテレスの言う「不動の動者」に関わっています。
※ギリシャ語ἐνέργειαエネルゲイアの豊穣な意味(プラトンも使っていないアリストテレスの造語とされているが)は ― 今日的にはエネルギーenergyという言葉で一般的なものとなっているが ― 、スコラ哲学においてpotentia(energeiaの対立語のδύνᾰμιςデュナミスのラテン語訳)との対比においてactualitasと翻案され、近代哲学ではWirklichkeit(現実性(ヴィルクリッヒカイト))になり、「可能性-必然性」「本質-現象」「観念論-実在論」など、近代的思考の根底に影響を及ぼしている。もちろん、アリストテレス的なエネルゲイア概念をすっかり損なう形で。

ハイデガーがエネルゲイアに見出した時間性は、『存在と時間』公刊とほぼ同時期の講義では次のように言われています。

何か或るものを見たとき、今それを見ていると言う。見(ゲゼーエン)-た(ハーベン)(Gesehen-haben)、ということによって見る(ゼーエン)という活動(アクト)(Akt des Sehens)が終わるわけではない。この活動は、見-た(Gesehen-haben)ことによってまさに始めて本来的なものとなっている。これに対して他の運動様式、聞く、歩くなどは、それらのテロス(目的)が達成されれば終わりになる。これらは目標に向かっていたまさにその時にだけ、現実的である。これに対して思惟(ノ)する(エイ)こと(ン)(νοειν)は、その本質に従えば、絶えず活動しているものであり、しかも活動としてそれだけで完結しているものであり、その上、活動が完結している限り、本来的にある。(ハイデガー全集第22巻『古代哲学の根本諸概念』補遺ブレッカー筆記録)

茂木健一郎によって有名になった「アハ体験」「アハクイズ」は、この〈見る〉ことと〈見終わること〉とが同時に起こるエネルゲイアのことを意味しているに過ぎない。終わっているからこそ、目の前に在るものが見えていないのです。〈見る〉ことは、見損なうこと ― 無を見ていることと同じ事態です。ある種の不在が〈見る〉ことの中には書き込まれているのです。ドイツの心理学者ビューラーが名付けたAha-Erlebnis(アハ体験(エアレープニス))は、アルキメデスがアルキメデスの原理を発見した際、叫んだとされる言葉の「見つけた(ヘウレーカ)!(εὕρηκα!)」(「見る(ヘウリスコー)(εὑρίσκω)」の現在完了形)から来ています。まさに〈見る〉ことは現在完了であったわけです。

それはハイデガーの立場からすると、人間は死に続けている存在だということです。終えているのに始まり続けているもの、それがハイデガーにおける〈死〉=「不動の動者」です。『存在と時間』のハイデガーは、現存在(人間)の死こそ、「不動の動者」だとするわけです。彼がトマスやデカルトを飛び越え先祖帰りまでして言いたかったことは、そこにある。〈神〉も〈主観〉も死なない(死ねない)のだから。


●死ぬことと死ぬことの代理

少し抽象的になりましたが、人間の死の独特な時間構造は、死を自ら遠ざけるように存在しているということ。動物の死は、生死にとらわれている分、一直線に、継続的な時系列に沿って死に向かうわけですが、人間の死は曲がっているわけです。神も主観も、そして動物も死なない。

死は、もともと忘れてこそ死「である」というように人間の死は曲がっている。なぜ、忘れることができるのか?

それにはいろいろな答え方と水準があるのでしょうが、今日的に答えるとすれば、一つには、家族(生死の場所)も含めた共同体が解体して人間の死が見えなくなっているということがあります。身近な親の死に際しても、顔も見ず、手も握らず、親族みんなで「心電図」を見ながら死を"確認"しているという今日この頃。

死ぬことが記号化されているわけです。一体、心電図の波形が死の何を代理しているのかわかりもしないのに。死につつある親とわざわざ(遠いところから駆けつけて)直面しているにも関わらず、その遠い彼方でも"観察"できる心電図に集中する人々がいます。

また一方、脳科学や免疫学(=他者学)の進歩、および臓器移植における機能主義的な代理も死ぬことを相対的に希薄化しています。

さらには、子供が喧嘩をしたり、怪我をしたりするのを極端に避ける親や家庭環境。少子化で子供が一人しかいない(喧嘩しない環境での)子育ての影響もあります。兄弟姉妹喧嘩は、エディプスコンプレックスや去勢不安と共に、他者の身体を認識する最初の契機です。兄弟姉妹喧嘩は、役割認識(リーダー、中間者、下っ端など)の契機にとどまらず、自-他身体認識の契機でもあります。「痛み」は代理できない。喧嘩も怪我も代理の効かない自分の身体を介在させざるをえない出来事ですが、これはプラトン的に言って「死ぬことの練習」でもあります。「痛み」が代理不能なのは、死が代理不能なことの結果であって、その逆ではない。組織の仕事などは、どんなに優れたリーダーであっても代わりがいるものです。逆に言えば、自分がいなくなっても、いるのと同じように動く体制を作るのがリーダーの仕事であって、そもそも代理性とは近代性(民主主義)の指標であったわけです。

そう考えると、今の世の中で自分にしかできないことは何か。日常的にあたりを見回してすぐにでも思い当たることは、恋愛、散髪、病気(入院)などなど。他人の代わりに恋愛をすることもさせることもできない。他人の代わりに髪の毛を切ることも切らせることもできない。他人の代わりに治療を受けることも受けさせることもできない。これらは、すべて身体が介在しているからです。そして身体の本質は滅びること、つまり死ぬことであったわけです。

しかし、恋愛は24時間サーバー(携帯電話と携帯メールとLINEなど)によって内面の肥大と共にn個の友人関係と変わらないものになり、散髪は伸びる髪の毛を切ると言うよりは身体の自己表現性と代替し、身体それ自体さえも薬物まみれの"治療"と臓器移植によって相対化されようとしている。いずれも死ぬことを忘れるかのように。


●死の記号化は、記号化(代理性)の起源でもある ― 「コミュニケーション」としての死

しかし死ぬことの記号化(=相対化)は、記号そのものの起源でもあり、死は起源の記号でもあります。死は「私の死」でしかないようにして誰も死んだ者などいませんが、しかし人が死を「知る」のは、他人が死ぬことを通じてでしかない。

〈私〉にとって、死は代理不可能なものであるにしても、その〈私〉には(私単独では)不可能な何かです。死がすべての者に訪れることが充分既知「である」のは、他者が際限なく死に続けているように〈私〉に見え続けているからにすぎない。

他者の死が私の死であるように、他者の死が私の死の起源であるようにして、そして、その死は、死そのもの(=私の死)ではないというようにして、死は組織されています。その意味で、死はナンシーの言うように〈共(コム)-(-)現(パリュシオン)com-parution〉の起源、起源の〈共-現〉でもある。

つまり〈死〉は「コミュニケーション」(ナンシー)としてしか存在しない。

ナンシーは、従って、ハイデガーの「死への存在」の「への(zu)」をコミュニケーション的な「関与」=「死へと関わる存在」と理解しています。ナンシーにとって「死へと関わる存在」は、関わる存在の起源、起源の分割(パル)((ター)分有(ジュ))、起源の共同性です。ナンシーにとって、〈死〉は「コミュニケーション」の起源の非起源という事態であるわけです。
※ナンシーは、ハイデガーの「死への存在」についての、自らの「コミュニケーション」=「共同体」理解を、ハイデガーの、死の「私のもの」性、「単独性」に対置しています。そしてまた、その意味でレヴィナスのハイデガー批判に同調しているように見えますが、しかし「起源の分割(分有)」としての、ナンシーの、死の理解は、ハイデガーが私=自己の非力性(ニヒティッヒカイト)(Nichtigkeit)、つまり「根拠の非力性(Nichtigkeit)」を取り出すためのものであることをわざと無視しています。もちろんハイデガーの言う「非力性」とは根拠の「分割(分有)」のことです。この非力性については最終節で再度触れますが、この点についての更に深い論究については、別の機会にしたい。

ナンシーは次のように言っています。

似た者のもつ類似は、「終わり-へと-関わる-存在」たちの出会いから生まれるが、この終わり、彼らの終わり、そのつど「私のもの」(あるいは「彼らのもの」)であるこの終わりが、彼らを近似させると同時に同じ一つの限界によって分離する。その限界に対してあるいはその限界の上に彼らは共-現するのである。似た者は、私自身がすでに『似ている』というかぎりで、つまり原形はなく、同一性の起源もなく、ただ単独性同士の分割(パル)((ター)分有(ジュ))が「起源」であるという限りで、私に「似ている」。
(『無為の共同体』西谷・安原訳)

ナンシーの言う「コミュニケーション」は、個人間のコミュニケーションではありません。それはあらゆる内在の有限性(他人の死の有限性、私の誕生の有限性、私の死の有限性)を意味しています。これらの有限性(エントリッヒカイト)(Endlichkeit)の「一切は『外部』に曝されている」。初めに「分割(パル)((ター)分有(ジュ))partage」ありという事態、それがナンシーの言う「コミュニケーション」(※)です。私の私にとっての近さ(内在)、そしてまた他者の存在は、死(現存在の「有限性」)が〈共-現〉として存在すること、〈共-現〉としてしか存在しないことの結果(effect)に過ぎない。したがって、〈死〉が忘れ去られているということは、〈他者〉が忘れ去られていることだと言ってもいい。死の忘却は、言い換えれば、私の私にとっての〈内在〉を強化する事態だと言ってもいいわけです。
※ナンシーは『フクシマの後で』(2012年)では、もはや「分割(パル)((ター)分有(ジュ))partage」としての「コミュニケーション」に満足せず ― それはレヴィナス臭のみならず、場合によってはヘーゲル的な自己意識論ですらあったために ― 「集積(ストリュクシオン)struction」と言うようになる。「集積(ストリュクシオン)structionの向かう先は、過去や未来というよりは、現在である、ただしけっして現前において成就することのないような現在である。...時間のただなかにおける時間の外部 ― このことは、おそらく、われわれの時間についての思考がどれも、現在という瞬間がつねに逃れ去るということをめぐって予感していたことにほかならない。しかしこの『逃避』は、ここでは、もはや、消失ではないし、現出するものという意味での出来事でもない。破壊-構築((dé)(con)struction)と同じように、消失-現出((dis)(ab)parition)もその結びつきを解くことが求められる...」(「集積について」in『フクシマの後で』渡名喜庸哲訳)。

なんのことはない、これはツイッターの現前性にすぎない。「集積(ストリュクシオン)struction」とはタイムラインにおける微分断片の集積(ストリュクシオン)のことにすぎない。ナンシーが持ち出してくるデリダの「誤配destinerrance」も、タイムラインの「誤配destinerrance」、「誤配destinerrance」の「集積(ストリュクシオン)struction」にすぎない。たしかに「分割(パル)((ター)分有(ジュ))partage」よりは概念的に進化しているが、『フクシマ』を体験しないと見えてこないようなことでもない。ナンシーの〈技術〉論に足りないのは、「退屈」論なのである。この決定的な不足をこそ、私のこの講演全体で補いたい。


●個性とは、内在の別名か?― 土井隆義の『個性を煽られる子どもたち』における個性論(1)

土井隆義は、「最近の若者」の個性幻想について、「彼らにとっての個性とは、人間関係の函数としてではなく、固有の実在として甘受されている」(26)※と言っています。〈個性〉の「固有の実在化」とは、個性の〈内在〉幻想に他ならない。※以後頁数はすべて『個性を煽られる子どもたち ― 親密圏の変容を考える』(岩波書店)から。

現在の若者たちにとっての個性とは、他者との比較のなかで自らの独自性に気づき、その人間関係の中で培っていくものではありません。あたかも自己の深淵に発見される実体であるかのように、そして大切に研磨されるべきダイヤの原石であるかのように甘受されています。その原石こそが「本当の自分」というわけです。「私にだってダイヤの原石が秘められているはずだ」と、さしたる根拠もなく誰もが信じているのです。(27)

成績が悪くても「私は絶対に大学に行く」と大学受験用の選択科目ばかりとってしまう高校生、国語能力が低いにもかかわらず「ジャーナリストを目指す」専門学校志望者、地味な性格にもかかわらず「タレントになる」と言って芸能スクールを目指す若者に対して、教師の側が「考え直した方がいいのではないか」「君にはもっと別の道があるのではないか」と"指導"すると彼らは「先生がそんなふうに決めつけるのは良くない」「やればできるかもしれないじゃないですか」と「猛反発」してくる、という高校教員の体験を土井は紹介しています。

三人の若者の前半の思いは、私には少しも悪く思えませんが、後半の教員の指導に対する反応は確かに気になります。土井は、この反応の仕方を「他者の存在が希薄」「本源的に自己に備わった実体の発現過程として個性を理解する感受性」と受け止め、そういった個性幻想を〈内閉的個性志向〉と呼んでいます。諏訪哲二の言葉で言えば、「オレ様化」しているわけです。

「最近の若者」たちの「むかつく」という表現の多用もまた、「怒りの矛先を示す目的語を必要としない自己完結した表現」であって、「そこではそう感じてしまった自分の感覚こそが、ともかく優先されます」(30)。そしてこういった「内発的な衝動を重視するメンタリティー」は、むしろ「自己意識を断片化する」(34)。というのも、「自己の深淵からふつふつと沸き上がってくる自然な感情の在り方こそ、自分の本当の『キャラ』」であるとしても、「自らの生理的な感覚や内発的な衝動に依拠した直感は、『いま』のこの一瞬にしか成立しえない刹那的なものであり、状況次第でいかようにも変化しうるもの」(33)。

だとしたら、「個性とは一貫したもののはずだという幻想」と矛盾することになり、「その持続性と統合性を維持することが困難」になります。「『本当の自分』がわからないという事態」は、この「持続性」「統合性」「一貫性」と刹那的な内発性の「パラドクス」から生じている、と土井は言っています。


●〈現在〉を書き留める「濃密手帳」― 土井隆義の『個性を煽られる子どもたち』における個性論(2)

ここで、土井は、「近年、少女たちの多くが持ち歩いている濃密手帳」について触れます。

「濃密手帳」とは、(土井の説明によれば)、「日々の出来事を日記のように書き連ねたもの(...)。彼女たちは、自分の所有する時間の濃密性を表すメタファーとして、極度に小さく凝縮された微細な文字を使いこなします。その細かな文字によって埋め尽くされた紙面を眺めることによって、この世界における自分の存在を確認し、そこに生のリアリティを定着させようと試みているのでしょう。時間軸が有効でないと記憶は成立しません。記憶が成立しないから、記憶しようと懸命になる」(36)、それが「濃密手帳」。

土井は、個性の「持続性」「統合性」「一貫性」幻想と刹那的な内発性幻想との「パラドクス」の解消要求が、この「濃密手帳」の存在に表れていると解説しています。

未来にも過去にも実感がなく、時間に対する余裕の感覚を見失ってしまった自己は、かけがいのないたった『いま』のこの瞬間にしか、その生の感触を得ることができません。したがって、つねに疲労困憊してしまうまで、この『いま』を濃密な時間で埋めつくさないと安心していられない(...)。『いま』という時間にポッカリできた空白は、自分の存在そのものをまるで全否定しているかのように思えてしまいます。だから、彼女たちは、半ば強迫神経症的に、その空白を埋めようと躍起になる。(36)

「身近な人間からの絶えざる承認」の「必要」も、その脅迫的な不安を少しでも取り除くため」のものであって、「皮肉なことに、内閉的に『個性』を希求する人間にとって、他者からの承認は絶対なのです」(48)。「お互いに過剰なほど配慮しあう友だち関係は、このような状況から生まれています。それは他者への配慮ではなく、強力な自己承認が欲しいという自己への配慮の産物」にすぎない。

これが、土井の個性論のすべてです。土井の個性論の力点は、個性はもともと内在的に存在しているものではないにもかかわらず、「根拠もなく」、つまり「過去から未来へという時間の流れのなかに、現在の自分を位置づけること」ができないまま、それを信じようとするから〈現在〉を過剰に拡大するしかないということ。

土井の議論は、「若者たちが切望する個性とは、社会の中で作り上げていくものではなく...」(25)、「現代の若者たちは、自分をとりまく人間関係や自分自身を変えていくことで得られるものをではなく...」(26)、「社会的な成長のなかで形成されていくものとして自分の本質をとらえていない...」(28)、「社会化に対するリアリティを喪失している...」(29)、「個性とは本来は相対的なものであるはずなのに、内閉化した世界ではそれが絶対的なものとして甘受されている」(42)などと、土井自身の主観的な信念のようなものを前提にしている分、鼻につくところがあります。

繰り返される、土井のこの「社会的」個性論は、それ自体が機能主義に他ならない。土井が「本来の個性とは相対的なものであり、社会的な函数です」(27)と言う通りに。しかし「若者」の個性幻想は、むしろその機能主義(functionalism)から発生しています。


●関数主義としての機能主義(functionalism)こそが、〈個性〉を要求する

〈個性〉が存在する、〈私〉が存在する、というのは、むしろ、90年代後半から加速する24時間の緊密なコミュニケーションが要請しているものであって、その逆ではない。

先でも触れたように、私たちは、ホンダのロボット「ASIMO」が「歩く」とき、まるでその〈内部〉に〈人間〉(という動作主)が入っているかのように勘違いします。行動主義(behaviorism)は、〈内部〉信仰を解体して、〈ふるまい(behavior)〉の外面性(behavior)こそが〈内部〉を現出させると主張します。〈内部〉は〈ふるまい(behavior)〉の結果(effect)に過ぎない。

しかし、内部が先であれ、外部が先であれ、〈内部〉は存在しないというわけではない。機能主義は、従来の形而上学的な、あるいは古い心理主義の、内部の実体論を相対化しはしますが、内部は存在しないというわけではない。外面性の強度は、内面性の強度と「相関」しているというのが、機能主義=行動主義の論理的な帰結です。だからこそ、ASIMOの〈ふるまい(behavior)〉も〈人間〉に見える。

P.L.バーガーも、相対的な選択主義は、内面を強化すると言っていたとおりです。バーガーの指摘していた宗教的内面主義は、科学技術の進展と相関する近代的な選択の自由と関連していましたが、それは、何でもゼロ(設計)から作り上げようとする人工知能の設計の自由と同じこと。

人工知能とは、家族や出自に象徴される階級主義への対抗としての近代主義の科学的表現にすぎない。近代人の野望は最後には自分の遺伝子や乳児期の環境を自分で"設計"したいということになります。ゼロから作り上げようとするからこそ、外部=他者を必要とする。そして他者と関係すればするほど、ゼロであった自己もまた作られていく。したがって、コミュニケーションの強度、つまり相関の強度が強ければ強いほど、内部幻想も強固になる。それこそが機能主義的な自己であったわけです。

●個性幻想とコミュニケーション幻想との機能主義的な矛盾

土井の指摘で重要なことは、〈現在〉を拡張することによってしか他者を受け入れることができない、今日的な「私」の問題です。「濃密手帳」のような〈現在〉を細分化する行動は、今ではツイッターによって普遍化しています。

今となっては、「若者」も「大人」も「濃密手帳」を書き続けていると言っても良い。個性幻想とコミュニケーション幻想とが一体になっているメディアがツイッター現象だと言えます。

なぜ、個性幻想とコミュニケーション幻想とは一体になって表れるのか?

チューリングテストのように、実体化できる中身を持たない〈人間〉には、反応することのみが自己確信する原理になるからです。"彼"は、反応する時にだけ存在しています。機能主義=行動主義にとって〈ふるまい(behavior)〉が無いことは、非存在に等しい。無反応さえ、それは、一つの〈ふるまい(behavior)〉として意味づけられている。メールの〈無〉反応や〈非〉通知着信に過剰に反応するように。

それは、精緻なフィードバックシステムが、反応する差異を微細化していく過程に似ている。24時間の微細なコミュニケーション共同体は、したがって、最初から矛盾をはらんでいます。

近接化("同調"を求めて自己確信を強化すること)と疎隔化("特長=差異"を求めて自己確信を強化すること)とが同時に進行するという事態。外面化と内閉化とが同時に起こるのが機能主義=行動主義の特徴です。

「『個性的な自分』の根拠の不確かさ」と土井は言っている。「自分の主観的な思いだけでは『個性』の重さに耐えきれず、客観的に見える他者からの絶えざる承認を必要」とし、「客観的に見える他者からの肯定的な評価によって、その重さを支えてもらわなければ安心できなくなっている」(45)。

昨今の若者が「感情的に(強迫神経症的に)」反発するというのは ― 土井の指摘で言うところの「むかつく」の自動詞性 ― 、その意味でのことだ。それは、「理性か、感情か」というよりは構造的にそうなのである。土井も言うように「皮肉なことに、内閉的に『個性』を希求する人間にとって、他者からの評価は絶対...」(48)。

結局、ここに立ち現れる〈自己〉と〈他者〉との関係は、長い時間によって形成された人格と人格との関係、あるいは思想と思想との関係ではなく、短い時間の神経症的な反応の応酬に過ぎない。賛成(承認)と反対(拒否)とを加速度的に微分しながら積み上げていく、あるいは抽象的な自問を、「濃密手帳」の中に〈現在〉を切り刻むように細かに、まるで科学者の観察記述のように書き込んでいく。極端な主観性と極端な客観性が共存できるのは、いずれも〈拡張された現在〉に定位しているからです。

いずれも、「今、そう思う」というリアリティだけが自己確信、他者認知の基盤になっている。いずれも、どんなに感情的であっても、どんなに細微であっても〈現在〉というリアリティに定位しています。逆に言えば、細微で些細なことであっても、〈現在〉のリアリティがそれを重大事に ― 「傘がない」(井上陽水)というように ― させているわけです。


●ヘーゲルと「存在しない」今と

しかしヘーゲルは、〈今〉現在は「存在しない」と言っていました。「『今とは何であるのか』という問いに対して、我々は、たとえば『今は夜である』と応える。この感覚的な確信の真理を吟味するためには、簡単な実験で充分。この真理を書き留めておこう。真理というものは書き留めたからと言って消えて無くなるものではないだろうし、蓄えておいたからと言って消えて無くなるものでもあるまい。その上で、今この日中にその書き留めておいた真理をもう一度眺めてみよう。そうすれば、それが気の抜けたものになっていると言わざるを得ない」(『精神現象学』「感覚的確信」)。

しかし、「今」が「書き留めた」途端に今でなくなるのは、書く時点と読む時点とが分離しているからです。書き留める書き手が読み手を得るのは、かつては、清書されたり、発表されたり、印刷されたり、配布されたりした〈後〉でのことだった。その間に、「今」は「気の抜けた」ものになっていた。

しかし、もし発信が同時に受信であるようなメディアが存在するとどうだろう。発信が瞬時に共有(=消費)されるようなメディアが存在するとすればどうだろう。

発信(input)の時間と場処が「今」と「ここ」というように刻まれているだけではなく、受信(output)の時間と場処も同じように「今」と「ここ」として同時(●●)に(●)刻まれているとしたら、ヘーゲルがここで言っているような「書き留める(アオフシュライベン)(aufschreiben)」ことの問題は発生しない。リクールが言ったような書く(エクリチ)こと(ュール)の「疎隔distanciation」性(『解釈の革新』)さえもここにはもはや存在していない。エクリチュール(書き言葉)は限りなくパロール(話し言葉)に近づく。

たしかにヘーゲルが言うように、書き留められた〈今〉は、それを「後になって」目にしたときにはもはや存在しない。しかしそれは、用済みになっているだけのことだ。書き留められたその瞬間にそれが目に留まれば、もはや「今は存在しない」という「気の抜けたもの」(ヘーゲル)にはならない。

人はヘーゲルの「留保」(デリダ)の弁証法を前にして、〈現在〉において終わろうとしている。「濃密手帳」やツイッターにおいて、〈現在〉を細分するのは、現在において生じ、現在において終わろうとするものだけに気を留めるためです。

それは、将来の自分や過去の自分を捨てているのではなく、つまりいかなる刹那主義でもなく、〈現在〉において〈始まり〉や〈終わり〉を細分化することによって、〈現在〉が〈永遠〉であるように留まり続ける〈ふるまい(behavior)〉であるわけです。


●「終わりなき日常を生きろ」と終わりの日常化

かつて「終わりなき日常を生きろ」と叫んだ社会学者がいましたが、叫ぶまでもなく、日常は〈終わり〉を見せないように進行しています。オウムの「ハルマゲドンによる救済」は、この終わりという「外部は消えた」ことに対する「ファンタジーの現実化」(宮台真司)だったわけです。

しかしもう一方で、この日常は、不断に終わりを見せつける日常でもある。

オウムの「ハルマゲドンによる救済」を、長い時間の終わりというファンタジーだとすれば、ツイッターにおける「タイムライン」は、短い時間における終わりを不断に再生しています。

それは、個人が住宅ローンを初めとする買い物のローン化によって、〈信用〉を細部にまで浸透させ破綻をこまかく延期する、つまり細部にまで終わり(=複数の終わり)を繰り返すことによって破綻(=単数の終わり)を延期することと似ている。近代的な個人の経済活動の限界=破綻(End)は、クレジットカードによって相対的に延期されているのです。

フクヤマの「歴史の終わり」の民主主義も、政治闘争が終焉したのではなくて、政治闘争が民主主義に最適化したということにすぎない(それが事実かどうかは別にして)。フクヤマは、日本の「歴史以後」は「エコノミックアニマルとして生きる」ことだとさえ言っていますが、彼の「歴史の終わり」は(これまた日本通の)コジェーヴ的な「動物」論に基づいています。コジェーヴの「歴史」以後、つまり「フランス革命とナポレオン以降」の「人間」=「動物」論とは、要するに人間が機能主義的になるということでしかない。良質な機能主義はロマン主義よりははるかに健全だからです。

しかし、コジェーヴのヘーゲル的「歴史の終わり」論は『精神現象学』の〈自己意識〉論までの話。コジェーヴは、たぶん『精神現象学』を最後までまともに読んでいない。それもあって、彼の歴史の終わり論は、奴隷の主人化という個人主義的・主体主義的・人間主義的な話で終わっている。だから民主主義論も動物論で終わってしまう。わかりやすい分、サルトル、バタイユ、ラカンなどにも大きな影響力を持ったのですが。
しかし、「歴史の終わり」は、コジェーヴが考えるほど人間主義的なものではないし、時間的でもない。

「ハルマゲドンによる救済」は「ファンタジーの現実化」でしたが、オウム事件以降急速に発達したネット社会 ― 地下鉄サリン事件、阪神・淡路大震災が「現実に」起こった年は、くしくもWindows95の発表された1995年でしたが ― では、その「現実」性を覆うようにして、心理的な〈内面〉が拡大しています。〈終わり〉は日常の相対性と対比されるものではない。〈終わり〉は、オウム以降、むしろ不断に日常化されたのです。

リオタールの言う「大きな物語」=「メタ物語」としての「ハルマゲドン」は「小さな」物語の連続として日常化されたのであって、その意味では、〈終わり〉そのものは消失したわけではない。しかし「大きな」終わり、「小さな」終わりという終わり論の相対化は、結局のところ、〈終わり〉そのものとは何かを考えることを棚上げにしている。これらの思考は、結局のところ、〈終わり〉は存在すると言えば存在するし、存在しないと言えば存在しないと言っているだけのことです。つまり、〈終わり〉はふたたび忘れられたと言えます。


●「人間は外見じゃない」というのはあり得ない ― 「話せばわかる」が無効になること、あるいは決着の時間性について

ツイッターの微分が進めば進むほど、死は忘却の淵に追いやられる。過去や未来は「もはやない」「まだない」という意味で実在的ではないという点では、ツイッターの心理主義的な現前性は効力を持っています。
つまりツイッターというのはいろいろな人のストックだとか専門性とかいうものを微分解体するという点では、そしてまたそれらを今-現在に並べて流し去るという点では、「俺は実はこう見えてもえらいんだぞ」とツイートする人はまったく通用しない。それは、ニーチェ的には「背後世界の倒錯」というものです(笑)。

今書いているツイートが魅力的でなければ、その人がすごく偉い人であろうとすごく実績を持っていようとバカはバカだというところで、実在的な過去=実績をつぶすだけの十分な威力をツイッターは持っています。皆が興奮しているところはそこです。「タイムライン」は、そういう輩に、ニーチェのように死を宣告しているのです。「話せばわかる」というような担保は、人間には元々ない。「話せばわかる」というのも一つの態度表明、意味表明だからです。担保も留保もなくそこで終わっているわけです。「話せばわかる」と言って殺された首相もいるくらいなのですから。そこだけは、自分の態度の意味作用を抑えるなんてできるわけがない。科学的な言葉の(意味の)「定義」もそうです。どんな場合も、人間は現れているのですから。この片時も抑えようのない現れを、フッサールは〈現象〉と呼んでいたわけです。

よく、「外見ではなくて、内面が重要。人間は外見じゃない」って言う女の子がいるでしょ。そんなのウソです。〈内面〉はながーい時間の交際の結果、見えてくるものなわけですから付き合わないことにはわからない。だから、私は「外面ではなくて内面だ」という娘には、「だったら、無条件で私と付き合うのか」と言うことにしています。絶対に付き合ってもらえません(笑)。つまり、付き合うかどうか、〈内面〉を見に行こうとするかどうかを決めている《外面》 ― ナンシーの言う〈共-現〉としての「コミュニケーション」(レヴィナスの言う晒されている《顔》) ― があるのです。

「付き合ってみたら、いい人だった」「付き合ってみたら、幻滅した」という"変化"も、付き合いの間(●)を(●)持たせて(●●●●)いる(●●)時間(●●)がいつも先行している。この《外面》が分母として真っ先に(ア・プリオリに)存在している。その娘の言う「外面」と「内面」との差異は、実は、この分母としての《外面》の分子で生じている〈外面/内面〉に過ぎない。この、分母の、あるいは大文字の《外面》がフッサールの言う〈現象〉です。ハイデガーはこのフッサールの〈現象〉を〈気分(ベフィントリッヒカイト)(Befindlichkeit)〉とも言い換えました。〈気分〉は主体的な選択=〈私〉を超えているわけです。あらゆる「環境」と「私」を越えて、べたーっと地べたに溶解している感じがハイデガーの〈気分〉です。この〈気分〉の中にないものはない。現象学的にはすべて決着が付いている。

この決着性を、ハイデガーは〈視〉の決着性、見終えていることの決着性(見終えていることの継続性)としたわけです。エネルゲイア→ノエイン→現存在の「死への先駆的(フォアラオフェンデ)決意性(エントシュロッセンハイト)vorlaufende Entschlossenheit zum Tode」(※)という流れにおいてです。もちろんこのベクトルが経由しているのはフッサールの超越論的意味論(志向性)です。フッサールの意味論こそが既に「見終えている」意味=現象学的意味論だったわけですから。フッサールの〈現象〉とは「見た(ゲゼーエン・ハーベン)(gesehen haben)」という現在完了のことだったのです。

※ドイツ語のEntschlossenheitは通常「決然としていること」「決意性」「覚悟性」と訳されていますが、その動詞形のentschließenで言えば、ent(解除する)-schließen(鍵をかけ閉じる)という意味。直訳すれば「封鎖解除」ということです。Entschlossenheitは、封鎖解除性とでも訳した方がいいかもしれない。この言葉はハイデガーの動物論における「抑止(エント)解除(ネームング)Entnehmung」という言葉と対比して考えればわかりやすい(この封鎖解除性、抑止解除性についてはまた後で少し触れます)。

担保できない時間、留保できない時間(決着が付いてしまっている継続(●●))=現象という点で、ツイッターの微分性とフッサール・ハイデガー的な現象性とは限りなく類似性を有しています。ここではなお類似性に過ぎないのですが(笑)。


●動物の生死と人間の生死とツイッターと― ツイッター再論(1)

つまり人間は動物のように時間を担保しながら生きてきて、その結果朽ち果てて死ぬのではなく、死んでいるやつは生きていても死んでいるわけです。「タイムライン」の生成は間断ない生死の象徴だとも言えるし、死の日常化でもある(と、とりあえずは言えます)。〈終わり〉は、日常の些事によって相対化されたのではなく(「終わりなき日常を生きろ」というように相対化されたわけではなく)、毎日が死だ、現在こそが死だというように日常化されたのです。

動物が生きている理由は彼が生まれたからです。人間は生まれた理由を全否定することができます。いつでも死のうと思えば死ねたのに、なぜ自分は現にこうやって存在しているのかということを自分の現在に問い続けることができるのは、人間の生と動物の生とが違うからです。

自分は現在をどう選択するかということがツイートで極限で問われ続けていることです。動物のような自然時間で過去から将来に向かって時間が延びていて、生まれた始点があって70年、80年経つと最後に自分が死ぬという「人生論」的な、リニアなこの時間構造は動物の生死の構造です。しかし、何度も言いますが、人間の生死は曲がっている。

人間の生死って生まれたときから確実なのは生きることより死ぬことなんだから、いつも選択しなおされ続けている。生きることの影が死ぬことなのではなくて、死ぬことの影が生きることなわけです。生の結果が死なのではなくて、死の結果が生きていることなわけです。これは、サルトルが「無の分泌」という言い方で特に強調したハイデガー解釈です。

動物の死は「朽ち果てる」死に方ですけれども(ドイツ語でableben、verenden、sich zu Tode laufenなどと言います)、人間の死はいつでも死のうと思えば死ねたという現在を抱えながら存在しているという意味で、ツイッターの現前性の微分はそういった緊迫感を隠喩している点ではすごく革命的です。

これは、ポストモダンの思想家たちが〈主体〉とか〈人間〉というのは実は幻想なんだと言ったことにかなり近い。「幻想」と言っても避け得ない幻想(超越論的仮象)なわけですが。ツイッターの微分作用は、ドゥルーズの言葉を借りれば「多平面主義」「n個の自己」「共立性consistance」「流動性 flexibilité」、「解離性同一性障害trouble dissociatif de l'identité」「共立平面 plan de consistance」「分割体 dividual」とほとんど同じです。ドゥルーズの言う"意味の反復性"が力動的なのも「タイムライン」そのものです。むしろこれらの難しい言葉の意味は、ツイッターの登場においてすごく理解しやすくなった。デリダの「差延」もそう。これらは、思想的概念にすぎなかったわけですが、ツイッターにおいてはすでに世俗化しています。

かつてマルクスは、ルターの宗教改革について「肉体を鎖から解放したが、それは心を鎖に繋いだからだ」と言いましたが、ツイッターは「心を鎖から解放したが、それはつぶやきまでをも鎖に繋ぐため」だったとも言えます。"超個人的な"つぶやきの一つ一つにまで世界大に通用するアドレスが付く時代なのです。

「ここ」「今」という身体感覚と並行している私にしかわからない個別性について、身体がどんどん微分していくことによって様々な観念に分配・接合していくことができるという事態がツイッターで生じています。それは、〈身体〉の心理主義化という事態です。心理主義的な相対化をツイッターはやっているわけです。


●身体の心理主義化と「死ぬなう」 ― デカルトの〈主観〉の現前性からハイデガーの〈気分〉の現前性へ ― ツイッター再論(2)

〈身体〉の心理主義化とは、一言で言えば、「人間みんなちょぼちょぼ」ということです。エライ人もアホな人もみんな大して変わらないという感覚です。これは思い起こせば、ベ平連運動を主導した小田実の思想でもありました。小田の市民主義というのは結局心理主義なんです。そういうのはみんな心理主義です。「戦争嫌いでしょ」「反対でしょ」というやつ ― 最後はFacebookの「いいね」。ベトナム戦争がなんであれ、「戦争嫌いでしょ」で終わる。こういうのは、勉強嫌いの心理主義です(笑)。戦争自体の歴史的・政治的評価を棚上げにして「喧嘩はよくない」というのですから(河井奈保子=竹内まりやのように)。喧嘩をしている当事者からすれば、たまったものではありません。

安倍首相の誕生日が1954年9月21日と聞いて「あっ、乙女座だ」、そして「十二支は午年だ」「血液型はB型だ」、「体重は70キロだ」「出身大学は成蹊大学(法学部)だ」、そして「奥様の昭恵さんは1962年6月10日の双子座生まれだ」と言うとき、急に親しくなった気分になる、あるいは毛嫌いする、これが心理主義です。

「タイプ」「モデル」的な結合、つまり述語結合を諸々の接合や離合の軸に置く考え方は、機能主義心理学の人間観です。そうやって、サイバネティクス以後の心理学は主語(=内面)としての人間(=アリストテレス的な魂、あるいはウーシアへの問い)を相対化してきたわけです。それらはすべて、統計学的なコンピュータサイエンスの徒花みたいなものですが。心理学(機能主義心理学)がもっともそうに見えるのは、方法論が数学的な体裁を取っているためです。対象(ウーシア)としての〈心〉なんてどうでもよい。〈人間〉もどうでもいい。機能主義科学(すべての近代科学scienceは機能主義functionalismですが)は、〈方法論〉しかないのです。

要するに述語処理にとって、統計学的なコンピュータサイエンスの成熟は神様(近代的な学問の神様)みたいなものです。そして統計学的なコンピュータサイエンスの基軸の思想は"多数決が一番"というもの。述語をたくさん集めた奴が勝ちということ。要するに民主主義です(笑)。

大勢になびくという仕方で、一者(一述語)になびくというのが民主主義。今日的には〈サーバー〉も同じ。これらは全然"民主的"ではないのですが、解散総選挙を繰り返したナチズムがその典型だったわけです(そもそも統計学とは、根こそぎの根無し草という意味で解散総選挙の学です)。それをこそ、ハイデガーは(自己反省も含めて)「形而上学の存在(オント)-(・)神(テオ)-(・)論的(ローギッシェ・)体制(フェアファッスング)(Die onto-theo-logische Verfassung der Metaphysik)」(1957年講義)と呼んだわけです。

さて、加速器のように人間を微分記述すれば(短い時間で傾向処理すれば)、人間の身体も相対化できるのではないか。これが、ツイッターの予感です。われわれ哲学者、あるいは現代人は、ツイッターの挑戦を受けているわけです。今から思えば、ポストモダンの思想家たちは、単に心理主義でしかなかったのではないか、というのが、この数年間のツイッター体験における私の感慨です。

デカルトの〈主観〉の現前性(アンヴェーゼンハイト)(Anwesenheit)よりもヘーゲルの〈精神〉の現前性。ヘーゲルの〈精神〉の現前性よりもフッサールの〈現象〉の現前性、ハイデガーの〈気分(ベフィントリッヒカイト)(Befindlichkeit)〉の現前性と、〈現在〉は近代哲学以降、多様に拡張され続けてきたわけですが、ツイッターの現前性は、どこに位置付くのか、まだ誰も見定めていません。

ツイッターの微分は何で起こるのかというと、未決の継続を生きている人間が死ぬ(いつでも死にうる)ということについて人間が忘れ続けているからです。厳密に言えば、忘れようとしても忘れられないからです。だから、現在を微分しながら忙しくしているのです。ツイッターで「時が経つのを忘れる」というのはそういうことです。ハイデガーが〈不安〉(=死の不安)論のみならず〈退屈(ランゲヴァイレ)Langeweile=「長い(ランゲ-)時間(ヴァイレ) Lange-weile」〉論にも深く言及する理由も、その点においてのことです(ハイデガーの「退屈」論については後で少し触れます)。

要するに、タイムラインでフォロー数を増やして毎秒死ねば、最後には「死ぬなう」とつぶやきながら死ねるかもしれない、というのがツイッターの予感です。すでに「セックスなう」は登場している。あとは「死ぬなう」を待つばかり(笑)。速度は死を乗り越えられるのか、ということなのです。「フレーム問題frame problem」における〈フレーム〉をも微分で刻んで相対化しようとしているわけです。

しかし、それらはすべて終わりの強度がそうさせている。終わりの強度(=決着の強度)に応じて、相対化の強度が進んでいるだけのことです。機能主義、あるいは機能主義的心理学というのは、決着の強度を忘れた思想なわけです。ツイッターのタイムラインがそうであるように。

(まだまだ続く)

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