今日は忙しかったのですが、テーブルに置いたままになっていた吉本隆明全集第37巻(晶文社版)がふと目について(私もこの全集の月報を書かせていただいたが)、パラパラとめくってみたら、彼の入門書としては私には最適だと思われる「日本語のゆくえ」がこの巻には含まれていた。懐かしい。


たとえば、私は吉本のこういう源氏物語の論じ方にかなり影響を受けました。光源氏の衰亡を季節の変化とともに語るところに源氏物語の現在があると。以下その引用。

「芸術言語論からいえば、『源氏物語』は現代の作品だよ、といっても少しもおかしくないくらい優れた作品だと思います。

ただ、ぼくがちょっと不満なのは、外国の研究者も日本の研究者もだれも「退屈だ」といわないことです。でも、どう考えたって退屈です。

主人公の光源氏が巷の女性や貴族の女性と最初は歌のやりとりをして、返歌をよんで相手の同意をえられたと思うと、すぐ女性の家を訪ねていく。そして薄暗い部屋で何かもそもそ話をしたり関係をもったりする。その繰り返しですから、退屈だといえばこれは非常に退屈です。

そうだとすれば、日本の国文学者も外国の研究家も『源氏物語』について「退屈だ」といわなければ批評にはならないと思います。少なくとも、ぼくらの考える批評にはならない。ところがみな一様に、いいところだけを取り上げてあげつらうのが通例になっている。そこのところは非常に不満です。

そういう退屈さはあるけれど、物語としてはとても優れています。物語が進むにつれ、華やかだった光源氏が年老い落魄していきます。すると物語のなかにも、いかにも春と夏が過ぎて、秋の気配を感じさせるような季節感が漂ってくる。そういうところは、表現転移論からいっても「現代の作品だ」ということができます。

「源氏」を「現代の作品だ」というと、文学史の流れとは違ってしまうわけですが、そこは違ってかまわないわけです。

ぼくらの芸術言語論からいえば、『源氏物語』は現代の作品だよ、といったほうが妥当だということになります」(165頁)

これは、私ふうに解説すると、表現の〈現在〉が源氏物語にも存在している、それが吉本が言う「現代の作品だよ」ということの意味です。だよな、と私も思います。ついでに言うと、与謝野晶子の源氏訳が一番いいと吉本が言うのも、私の好きなところです。

ここも江藤淳論としては卓越した見識です。『作家は行動する』の江藤淳が、なぜ小林秀雄に傾斜してしまうのか、私も不思議でならなかった。

「それまでは言語論をもとにした文芸批評はありませんでした。小林秀雄はそういう示唆だけはしています。言語論にもとづいて作品批評をできないか、ということは考えのなかにはあったようですが、ご自分ではやらなかった。

そこで、文芸批評をやっていた江藤淳さんとぼくが、それじゃあそこから文芸批評をやってみよう、そういう方法をつくってみようと思ったわけです。

そして、江藤さんはいち早く「作家は行動する」という本を書いています。それほど精密な分析ではなかったけれど、言語論から批評をやった日本では最初の試みだと思います。

「作家は行動する」の着眼点はいいものでしたが、江藤さんはそれを展開していません。なぜ、発端のところでやめてしまったのか。

じつは『作家は行動する』のなかで江藤さんがいちばん槍玉に挙げたのが小林秀雄だったんです。小林秀雄の文体はスタティックでちっとも動的ではない。行動主義的な、動いている言語表現ではないといって、批評のいちばんの眼目にしていたわけです。

ところがその後、江藤さんは小林秀雄を読み込んでいくうちに、だんだん小林秀雄に傾倒するようになっていった。

だから江藤さんは、『作家は行動する』の延長線上で文体論を発展させられなかったんじゃないか。小林秀雄に遠慮したんじゃないか、というのがぼくの見方です」(162頁)