デカルトの〈確実性〉からサイバネティクスへ ― 〈人間〉〈動物〉〈機械〉を同一平面で処理する思想の誕生
2026年2月 6日 16:54
哲学・形而上学
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デカルトが、「われ思う故にわれあり」で発見した〈主観(subject)〉は、ある意味でessentia/existentiaの対立を統合し、存在者の存在は人間の自我となったわけです。すべての存在者は、この自我の表象=対象となった。
この場合、自我と表象(=対象)とは二元論的に分離したのではなく、自我(われ)は、Subject (Sub-ject)として「下に-投げられて横たわっているもの」であり、Sub-jectとしてのSubjectは、その意味で、ウーシアの近代版だったわけです。
※英語の subject の語源は、ラテン語の subjectum(subjectusの中性形名詞用法)。Subjectusは、ラテン語の subicere(sub 下へ jec-[jacere] 投げるの連結形)+tus過去分詞接尾語であり、「下に投げ置かれたもの」を意味していたのです。
この意味では、デカルト的な自我(われ)subjectumは、主観-客観関係の主観ではなくて(廣松渉が指摘したような主観-客観関係ではなくて)、ギリシャ語のύποκείμενον(hypokeimenon)のラテン語訳として使われていて、ύποκείμενονの直訳なわけです。hypokeimenonは、ギリシャ語の動詞ύποκεισžαι(hypokeisthai)「下に置かれる」の現在分詞。「下に置かれたもの」という意味で、通常「基体」と訳されています。この基体としての主観がカントにおいて、超越論的主体(いちいち「と、私は考える」などと付け加えるのは無駄なことだという超越論的主体)につながっていくわけです。
アリストテレスは、ύποκείμενον(hypokeimenon)を、「他の事物はその述語となるが、それ自らは決して他の何ものの述語にもならない」ものとしていましたが(『カテゴリー論』の第一実体) ― もちろん『形而上学』(第五巻第八章)では、「他のいかなる基体〔主語〕の述語〔属性〕でもなくてかえって他の物事がこれらの述語であるところの〔基体的な〕ものども」のことをアリストテレスは、「οὐσία(ウーシア)」とも呼んでいましたが ― 、 デカルトに至って、ύποκείμενον(hypokeimenon)は、「基体」(基盤的な基体)としての「主観」となったのです。
デカルト的な「基体」としての「主観」の「明晰判明な」「確実性」が、デカルトにとっての「真理」となります。中世までのキリスト教的な「救いの確実性」が、ギリシャ的なύποκείμενον(hypokeimenon)を蘇生させて、主観の「明晰判明な」「確実性」に取って代わり、形而上学のギリシャ的なmetaが超感覚的な神学的超越(トランス)(trance)に変質して、デカルトにおいては主観の「確実性」となったわけです。
ここで、自然学との対立としての形而上学は、ほぼ姿を消しました。デカルト的な「確実性」は、自然学-倫理学(人間学)-神学の、つまりは形而上学的体制の諸境界を取り払ったと言ってもよい。
このデカルト的な「確実性」こそが、行動主義behaviorism以降の、あるいはサイバネティクス(ウィーナー)以降の、人間、動物、機械、あるいは人文系と自然系学問との諸区別、諸対立の解消、つまり「一般システム理論」(ベルタランフィ)的で統合的な学問形成動機の源になっています。
※ハイデガーは、「救済の確実性の探求(ルター)」や「自然の数学的確実性の探求(ガリレオ)」に連なるこの確実性の起源を、オッカムの形式主義(語と物との名目論的区別)に求めていますが、ここでの詳論は控えておきます。
〈主観〉の「確実性」ということによって、認識と対象との「一致」や主語と述語との「一致」といった〈真理〉論が前面化しはじめます。
ウィーナーのサイバネティクス(機能主義)が新しい試みであったのは、そういった観念論的=命題論的な「一致」論を超えて、「実際の行動」(ウィーナー)に開かれた〈システム〉を見出したからだとも言えます。つまり彼は、命題論的「一致」の〈外部〉、〈変化〉する外部を見出したわけです。「確実性」は、〈予測〉に変わっていったわけです。刺激-反応関係論の拡大版である行動主義的な諸科学もその意味では日々〈外部〉を見出し続けています。 ― 刊行予定の新刊(第九章の)一部より。ただいま加筆修正中。
