とある中学・高校校長の断章についての感想 (3)― 「たった一日」で人生が決まる紙試験はほんとに若い人たちの不公平を招くのか(解説Podcast付き)
2026年3月18日 20:42
「たった一日」の受験で決まるから、平等なんじゃないの?
そもそも教員に他人さまの人格を評価する権利はどこにあるの?
紙テストやマークシートは、人格が現れないからこそ平等なんじゃないの。
科挙も、製紙技術が世界史的にトップクラスだった中国でこそ、可能になった。面接試験の枠を超えて、階層を超えて全国の若者が大量に参画できたからこそ、階層性を脱却し、有意な人材を排出することができたのです。
短い時間の選抜と紙試験(いまであればマークシートの単純性)こそが、階層のシャッフル装置の原理です。
面接や人格(人間性)を重視すると大概の場合、子供は親の階層から脱却できない(まだまだ素振りbehaviorが親の影響を抜けきれないからです)。
だから、東京の名門私立小学校は、親の面接を重視する訳です。科挙以前の家柄・貴族制です。
天皇陛下も、偏差値の高い大学を出ていない。なぜか? 〈家〉の選抜がすでにできているからです。メリトクラシーとは、身分制度の反対語です。
大学教授なんて、身分はいろいろです。一般的に教員という人たちの身分はいろいろです。
なぜか? メリトクラシー(非人格的な選抜)によって選び抜かれた人たちだからです。だから、教員集団ほど〝多様な〟人格を持った人たちはいません。あやしげで非常識な人たち、食事のマナーさえない人たちがいっぱいいます。
この多様性を担保しているのは、メリトクラシー(知識主義)によって選抜された人たちだからです。人格を問わない〈知識〉選抜こそ、近代的な多様性を担保しているわけです。
多様性とは、社会学的に言えば、一つの集団や組織に、どれだけ、出自(階層)の異なる人たちがいるかどうかであって、いわゆる〈個性〉の問題でも〈人間性〉の問題でもなんでもありません。人工的で文化的な獲得物である〈知識〉に定位するからこそ、多様性を担保できるのです。
さらに、評価の時間軸をながくとればとるほど、階層性が前面化します。
現にアメリカの一流大学は、高校時代の勉強外の要素、例えばボランティア活動の有無とか、親の推薦状とか、聞いてきます。だから親に教養(=長文が書けること)がないと合格しません。ハーバード大学の親の平均年収は6000万円です。家庭環境がものを言う。評価時間が長いのです。本人ではなく親まで含めて評価するのですから。
一方、東京大学の親は推薦状を書く必要は無い。年収も平均1000万円くらいです。知識さえあれば無条件で入学できる。だからハーバードに比べれば、日本の学歴エリートは、ほとんど成り上がりものたちです。階層の流動性が極めて高い。それもこれもあなたの忌み嫌う紙試験のおかげです。
日本の学歴エリート層の社会は、世界にもまれなウルトラメリトクラシー社会です。あなたたちが個性とか自発性とかを〝できない〟生徒に押し付ける分、その平等性はどんどん格差を拡大し続けていますが。
だから、アホなことを言ってはいけません。人間性が大切、と言った途端に、貧乏人が馬鹿を見ることになるのです。〈貧乏人〉にとって、勉強するということは、出自を相対化する最大の武器です。勉強しなくていいのは、天皇陛下だけ。
実際、東京の名門私立学校は、東京大学のように成績だけでは入れません。親の面接を通過しないと入学できない。だから成金の親は面接時には急に時計とかブランドもののバック、濃い化粧を薄くして、成金感を薄めて面接に臨む。街の大もうけしている不動産屋さんでは名門私立学校に入れないのです。子供が学力成績がよくても、その成金感で、不合格となるのです。その意味ではメリトクラシーの反対語が家柄です。
つまり、勉強さえできればいい、というのは低階層の人間にとっては、救いの言葉なのです。いい加減、バカな子どもたちをアクティブラーニングなどによってさらにバカにし続けるのはやめなさい。
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上の記事の前提になったとある中学校・高校の校長先生の元記事。
今日は DALTON EXPO の振替休日。
学校での有志研修の帰り道、ある本を読みながら、偏差値についてあらためて考えていました。
・公平な選抜を行うために、ペーパーテストが必要であること
・一定の基準で選抜する受験システムが機能してきたこと
これらは、現実として否定できません。
けれど、その一方で----
・加熱する受験競争に、保護者までもが巻き込まれていくこと
・子ども自身の意思とは関係なく、過酷な塾通いが続くこと
・たった1日や2日のペーパーテストで、能力が測られてしまうこと
・個性や関心、受験学力以外の才能が、答案用紙からは見えてこないこと
こうした側面もまた、確かに存在しています。
読み進める中で、こんな一文に出会いました。
「偏差値とは、その名のごとく、極めて偏った評価方法なのです。」
強い言葉です。
けれど、どこかで頷いてしまう自分もいます。
もちろん、それは無意味だと言いたいわけではありません。
限られた条件の中で、ある一面を測るための"ひとつの指標"ではあります。
ただ、それを「その人そのもの」として扱ってしまった瞬間に、見えなくなるものがあまりにも多くなってしまう。
人は、本来もっと多面的で、揺らぎながら成長していく存在です。
その数値を、どこまで信じるのか。
そして、それ以外にどんな「ものさし」を持てるのか。
偏差値を否定するのではなく、
偏差値だけに依存しない見方を、どれだけ持てるか。
そんなことを、電車の中で考えていました。
読み始めたこの本は、
日本の受験が、世界と比して驚くほど独自の進化を遂げていること。
偏差値という単一の物差しが「公平性」を担保する一方で、最短で正解に至るパターン学習を強く求めている現状を指摘しています。
そして、その中で身につけた力が、複雑化した社会を生き抜くための力になっているのか----という問いを投げかけています。
中学受験や大学受験の"ガラパゴス化"とも言える状況、
偏差値競争や過剰な暗記偏重がもたらす歪み、
そして「学力=テストで点を取る力」という前提そのものへの問い直し。
さらに、世界が思考力・表現力・問題解決力へとシフトする中で、日本の受験がいまだ「正解を早く出す力」に重きを置いている構造。
そこに、受験産業の存在も含めた、複雑な背景が絡み合っています。
ページをめくるたびに、考えさせられることがいくつもあります。
読み終えたら、もう一度、自分の言葉で考えてみたいと思います。
