朝から凜々しくハイデガーの一文から。このテキストでの Austragの使い方は圧倒的だ。私も、大学生の時にこの語の、このような使い方がわかっていれば、もう少しまともな、存在論的差異の解釈ができていたかも。私の時代には『同一性と差異』という論文以外に Austragという言葉はなかった。

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苦(Leid)は和らげられ、困窮(Nöte)は鎮められる。

しかしそれにもかかわらず、人は「困窮そのもの(die Not)」に注意を払わない。
困窮に関して言えば、最高度の困窮、最高の危険のただ中において、無困窮(Notlosigkeit)が支配している。
実際は、しかし覆い隠された仕方で、この無困窮こそが本来的な困窮である。

すべての者は困窮をもっている。
しかし誰一人として困窮のうちに立ってはいない。
なぜなら、危険が存在していないかのように見えるからである。
では、われわれが困窮、すなわち無困窮の支配に気づくことのできる時はあるのだろうか。
その徴(Merkmale)は存在する。ただし、われわれはそれに注意を払わないだけである。

数十万の人間が集団として死んでいる。
彼らは死んでいるのだろうか。
彼らは殺されている。
彼らは死んでいるのだろうか。
彼らは屍体製造の在庫(Bestand)の構成部分となっている。
彼らは死んでいるのだろうか。
彼らは絶滅収容所において、目立たぬように処理されている。

そしてそのようなことがなくとも----
いま中国では、何百万もの人間が飢餓によって衰弱し、死に至っている。

しかし、死ぬ(sterben)とは、死をその本質へと担い出す(austragen)ことである。
死ぬことができるとは、この Austrag を成し遂げうることである。
われわれがそれを成し遂げうるのは、われわれの本質が死の本質を愛しうる(mögen)場合にのみである。

だが、無数の死のただ中にあっても、死の本質は覆い隠されたままである。

死は、空虚な無ではない。また、ある存在者から別の存在者への単なる移行でもない。

死は、存在(Seyn)の本質から出来事として生起した、人間の現存在のうちに属している。

それゆえ死は、存在の本質を内に蔵している。
死は、存在そのものの真理の最高の山塊(Gebirg)である。
それは、存在の本質の隠蔽をその内に蔵し、その本質の保蔵を集成する山塊である。

それゆえ人間は、存在そのものが、その本質の真理から、人間の本質を存在の本質へと固有化する(vereignen)場合にのみ、死を成し遂げうる。

死は、世界の詩(Gedicht)における存在の山塊である。

死をその本質において成し遂げうること----それが、死ぬことができるということである。

死ぬことができる者たちだけが、この語の担う(tragend)意味において、初めて「死すべき者(Sterbliche)」である。
無数の者たちの大量の困窮、おぞましく、しかもいまだ死なれていない死が至るところにあるにもかかわらず----

それでもなお、死の本質は人間にとって覆い隠されたままである。人間は、いまだ「死すべき者」ではない。

※ハイデガー『ブレーメン講演』(1949)より