2020年03月に投稿した記事一覧

「観点別評価」と「生涯学習」と中曽根臨教審、あるいは〈主体的な学び〉について(『シラバス論』321~331頁)

国語や英語や数学などの教科教育において、知識点数(だけ)ではなく、意欲、創造性も(共に)評価するという、いわゆる「観点別評価」が始まるのは、他ならぬ1990年代以降(=中曽根臨教審以降)の学校教育の中でのことです。 「観点別評価」を一言で言えば、知識点数は40点しか取れていないのに、20点の意欲点などをそれに付加して、履修判定のための最終「総合」合格点(60点)を出すというものです。こうやって、知識点数評価とは別に人物評価的な「観点」を加えていくと、従来は四〇点で落伍していたものが、人物評価主義的に救済されていきます。もちろん逆に100点の知識点数を有していても、50点マイナスの人物評価を受けて不合格になることがあっても理論的には不思議ではないのですが、事態はそうならず、前者の救済評価のみが1990年代以降蔓延したのです。 「知識のみならず、人物評価も」という議論の本来からすれば、(知識点...

学生は〈顧客〉ではない(『シラバス論』186~188頁)

なぜかと言えば、学校教育では、〈学ぶ主体〉などまだ完成していないのだから。むしろ〈学ぶ主体〉を形成するのが学校教育全体の目的であって ― 教育基本法では「人格の完成」いう言葉があるが、これは第一条「教育の目的」に属している言葉であって、まだ人格として完成していない子どもたちを前提とした言葉である ― 、〈学ぶ主体〉を前提にするのであれば、〈学校教育〉は存在する意味がない。 〈学校教育〉に〈学ぶ主体〉が存在するかのように思えるのは、家族や地域の文化環境(〝裕福な〟環境)のせいであって子どもそのものの力によってではない。学校教育は、家族や地域の文化環境をとりあえずは括弧に入れて、クラスに入れば子どもたちを公平平等に扱うところにある。すべてはこれからというところにしか学校教育の存在意味はない。そこで初めて、次世代を担う子どもたちは親の世代や階層(家族や地域の文化環境)を超えてあらたな階層を形成し...

大学における教育と研究との関係について ― フンボルト理念とセネカのDocendo discimus ― (『シラバス論』194~198頁)

Docendo discimus(ドケンドー・ディスキムス) は、セネカの言葉である(『セネカ哲学全集(第五巻)』倫理書簡集Ⅰ、岩波書店、2005年)。「教えることによって学ぶ(教えながら学ぶ)」という意味だが、これは西川純(上越教育大学)たちのくだらない『学び合い』教育とは何の関係もない。いつでもどこでも最高判断、最高認識が露呈する仕方で学ぶ者に接しなさいということだ。「君は君自身のために学んできたのだから」(同前・21頁)とセネカは教えることの啓蒙主義を退けていたのだから。 学ぶ者の程度を考えることは教える者自身の堕落に他ならない。「程度を考えて」教える教員は大概がその「程度」の教員に成り下がる。「わかりやすく言うと」と言いつづけて教える教員が、いつの間にかわかりやすいことしか考えられなくなることも多々ある。それは啓蒙主義の限界でもある。 一方、留保なく教えることができるときにこそ、〈...

学校教育における職業教育の諸課題(『シラバス論』351~356頁)

※本間正人さん(京都造形大学教授)との、大激論公開対談(学校教育における〈キャリア教育〉とは何か)からの抜萃。 ●二重の差別を受けてきた「職業教育」 芦田 そういった議論を前に進めるために二点指摘したいことがあります。一つは、本間先生はいま偏差値が上の方の子はキャリア教育はなくてもいいかもしれないという前提(僕もその前提を共有していると指摘されながら)でお話になっていますよね。 僕はこの問題の内部には、実は別の問題があると思います。80年代後半の中曽根臨教審、これは下村博文さん(2012年~2015年の文部科学大臣)や安倍さんが全く同じ方針を引き継いでいますが、基本的にキャリア教育や職業教育に対する差別視がある。 つまり、一方にはジェネラル・エデュケーションとリベラル・アーツというこれまでの偏差値型の軸が一本あって、今の日本の教育体系ではこれを「頭がいい」と判断します。そこで、本間さんもお...

カリキュラムの反対語は「講座制」 ― 講座制の歴史について ― (『シラバス論』70~77頁)

カリキュラム教育においては、科目はカリキュラムの〈部品〉に過ぎないが、東大に始まる旧帝大型の講座制(はるか昔、明治20年代以降に始まった)がまだ色濃く残る ― たとえ学校教育法が2007年にやっと改正され〈助教授〉が〈准教授〉になろうとも ― 今日の科目編成においては、シラバスの「詳細化」がカリキュラム開発に貢献することなどまだまだ考えられない状況だ。 天野郁夫によれば、「講座」の名称が登場するのは、明治23年の「大学令案」(文部大臣は第三代芳川顕正)らしい(『大学の誕生』中公新書、2009年)。当初の大学(教育研究組織)は、学部と学科の「二層」だったが、「大学令」以来、学部・学科・講座の「三層」になり、この「講座」に「教授・助教授・助手」が張り付いたのである。今からみれば、これが大学における学部や学科の求心性を殺ぐ教授主義の起源なのだろう。(※4)...

「大学の多様性」と「学生の多様性」と ― 「多様性と標準性の調和」(2008年)から「多様性と柔軟性の確保」へ(2018年) ― (『シラバス論』49~68頁)

「専門」教養とか「一般」教養、あるいは専門教育と一般教育などのありそうでなさそうな区分ももう一度考えるべき時なのかもしれない。四年間全体が教養教育だと言えば言えるし、四年間全体が柔軟な職業教育だとも言えるこの時代に、学部教育(学士課程)のカリキュラムをどう考えるのか、そこにしか〈専門〉と〈一般〉との区別を考える手がかりはない。 佐藤学によれば、大綱化までの日本の大学は、アメリカの大学の教養課程+ヨーロッパの大学の専門課程を足して二で割ったような体裁(アメリカ型四年教養教育の二年縮減型+ヨーロッパ型四年専門教育の二年縮減型)を取っていたが、設置基準の「大綱化」により、「教養教育が軒並み衰退」した。「それほど教養教育の教官が恵まれない状況に置かれてきたということです。予算といい教育の状況といいノルマといい弱い立場に置かれてきた。そのために一挙に崩れた」ということになる(「教養教育と専門家教育の...

先生が「答えを教える」授業はダメな授業なのか(『シラバス論』240~251頁)

(…) 一方、潮木守一は「最近では『わかりやすい授業』とは『勉強しなくてもわかる授業』、『予習しなくてもわかる授業』、『先生が答えを教えてくれる授業』になってきている(…)人間が長年にわたって学問にかけてきた努力と情熱を真っ向から否定している」という「ベテラン高校教師」の言葉を報告している(前掲書『大学再生への具体像(第二版)』)。 しかし、これはためにする批判のような気がする。パワポ論のところでも書いたが(二章五節)、授業という場所はどんなに資料(コマシラバスを含めて)を「詳細」化してもメタ情報 ─ それ「について」語るというように ─ が絶えず発生する場所である。詳細化の度合いは、そのメタ情報の質をどんどん高めてくれる。詳細に書き出した内容(の水準)を踏まえてメタ化が発生するからである。 詳細化すればするほどメタ情報は高度化する。書物、教科書、文献、教材資料、あるいは実習設備など、それ...

学歴主義と最新学習歴主義(Learnology)について(『シラバス論 』371~378頁)

※本間正人さん(京都造形大学教授)との、大激論公開対談(学校教育における〈キャリア教育〉とは何か)からの抜萃。 本間 僕は「学習学Learnology」というのを提唱していて、「最終学歴」という言葉を死語にすることが目標です。ここも、芦田先生とは違うところだと思いますけどね。「最新学習歴」が大切になってくると思う。 この大学、この学校を出たら学位が出ますというのは、現状、文科省の便宜上の形式的な取り決めに過ぎません。例えば僕らの話を聞いても、学位が出るわけじゃないですね。しかし何かそこで気づきがあり、何かそこで学びがあれば、最新学習歴を更新したことにはなっている。 やっぱり最終学歴という考え方は、教育学習のチャンスが社会的に極めて少ない資源で、かつ学校とかにフルタイムで所属しないと、なかなか知識や技能を身につけることができない社会では一定の意味があったのかもしれない。しかし今は自ら学ぼうと...

苅谷剛彦と家庭格差と教育格差について(『シラバス論』278~286頁)

(…) 苅谷剛彦は、戦後教育(日本型学歴主義)の平等感を、「画一的な平等化(生徒を分け隔てなく同じように扱う)」→「教育機会の拡大(高校全入運動)」→「メリトクラシーの大衆化(〝生まれ〟によらず誰にも教育において成功するチャンスが与えられている社会)」→「競争条件の均質化、平準化(偏差値による「客観的」「可視的な」基準による選別の公平性)」→「特権意識のない(…)学歴エリートの誕生(特定の文化的アイデンティティを持たない、大衆との連続線上に存在する学歴エリート)」→「不平等問題への視線の弱化(差別感を持たない教育への配慮)」と六段階に整理して、以下のように言っている。 「形式的な平等性によって、選抜の公平さを確保してきた戦後の日本では、これまで主観的な評価を受け入れる伝統が弱かった。従来の入試のように日本では形式的に人びとを公平に扱う手続きが、選抜の公正さを支えてきたのである。そのような社...

〈教育〉と〈education〉という言葉の語源について(『シラバス論』272~277頁)

(…)特に中曽根臨教審第二次答申(1986年)の第二章には「家庭の教育力の回復」と独立して章があてられ、「(…)教育を学校のみの問題としてとらえがちであったことについて、家庭が反省し自らの役割や責任を自覚することが何よりも重要である」とある。自民党保守派の家族主義が独立した章にあてがわれるほどに臨教審のイデオロギー色は強い。私はこれを臨教審の曾野綾子主義と呼んだことがある。 教育現場では〝できない〟学生が発生し欠席が連続し退学予備軍が生まれると、保護者と連係を取ろうという動きが生まれるが、〝できない〟学生の保護者は保護者自体が困難な事情にある場合も多く、「家庭が反省し、自らの役割や責任を自覚する」余裕などほとんどないのが現状である。答申から30年以上経って、その現状は日増しに高まっている。教育現場(学校)が「学校(教育)だけではどうしようもない」と音を上げたときに、子どもたちが戻れる家庭な...

名門私立小・中学校の入試と底辺大学の入試とが同じくAO入試である理由(『シラバス論』269~271頁)

(…)一方で東京の名門私立学校が形成する家族主義的に選抜された学生群─この子どもたちの親は一般的に言ってその子どもたちが通う学校の教員よりも学歴(学校歴)と識見が高い ─ が存在し、一方でメリトクラシー(努力主義)によって非家族主義的(点数主義的)に這い上がってきた「グロテスクな」学生群 ─ 「それなりに才能がある、つまりそれなりの才能しかない」(高田里惠子『グロテスクな教養』ちくま新書、2005年)と高田が指摘した文化人たち ─ とが存在している。天皇制の反対概念がメリトクラシーだと言ってもよい。 不思議なことに、名門私立学校と偏差値も付かない学校の入試選抜とはどちらも人物評価であるが、前者は中高一貫校選抜での家族(親)への評価、後者は学生個人への評価である。...

大学の種別化、機能的分化と専門職大学のことなど(『シラバス論 』261~265頁)

(…)文科省の悪名高き「我が国の高等教育の将来像」答申(2005年)は、大学の「機能的分化」という言葉を使って、大学を以下の7つに分けていた。「① 世界的研究・教育拠点、②高度専門職業人養成、③ 幅広い職業人養成、④ 総合的教養教育、⑤ 特定の専門的分野(芸術、体育等)の教育・研究、⑥ 地域の生涯学習機会の拠点、⑦ 社会貢献機能(地域貢献、産学官連携、国際交流等)」。 これが悪名高い分化論であるゆえんは、既存の大学の偏差値格差、都市大学と地方大学格差を「機能的分化」という言葉でまぶしたような分化論=大学階層化にみえるからだ。20年前の中曽根臨教審のなれのはてがこの「将来像」答申だと言ってもよい。なぜかと言えば、その20年間であれだけ手垢の付いた「個性」「特色」という言葉をこの「機能分化」にことよせて、「個々の学校が個性・特色を1層明確にしていかなければならない」と言うのだから。2008年の...

「シラバスの書けない教員こそアクティブ・ラーニングや演習授業が大好きだ」(『シラバス論』261頁)。

(…)最後に触れておかなければいけないのは、「大綱化」以降(厳密には中曽根臨教審以降)の大学改革と並行して進められた「新学力観」のことだ。「新学力観」において、「豊かに生きる力」の資質としての「関心・意欲・態度」「思考力」「判断力」が「観点別評価」と共に前面化されたが、これらの「ハイパー・メリトクラシー」(本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、2005年)は、カリキュラム開発の動機を殺ぐものでしかない。 なぜかと言えば、「関心・意欲・態度」「思考力」「判断力」などは結果の能力であって、目的にするほどの固有性はないからだ。たとえば、この「新学力観」が嫌う紙ペーパーテスト試験 ─ とりあえずこの「新学力観」が嫌いな「知識」だけを問う試験 ─ の点数は、そもそもが「関心・意欲・態度」「思考力」「判断力」の成果でないとしたらなんなのだろう。そんなものを伴わない「丸暗記」などあり得ない...